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垣内惟聡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
垣内 惟聡
生誕 文化元年(1804年
紀伊国有田郡栖原村
死没 安政5年12月16日1859年1月19日
紀伊国有田郡栖原村賽神山麓
墓地 施無畏寺
別名 通称:松三郎・太郎兵衛・太郎八、号:梅渓、諡号:烱遠[1]
時代 江戸時代
肩書き 栖原垣内家本家第11代
前任者 垣内玄蔵
後任者 菊池晩香
垣内淡斎・孝
親戚 兄:垣内玄蔵菊池海荘、姉:鶴
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垣内 惟聡(かきうち ?)は幕末紀州豪商。栖原垣内家本家第11代を継いだが、豪遊して家業を傾けた。

生涯

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文化元年(1804年)栖原垣内家新家垣内淡斎(孝友)の三男として生まれた[2]。父が大坂安治川に出店した河内屋松三郎店を任され、醤油を販売した[1]。父は死ぬ間際、店を義兄垣内白沙に譲ったが、気に病まず高砂を謡ったという[1]

垣内玄蔵の養子となり、本家を継ぐと、大坂東堀に豪邸を構えて豪遊し、江戸本店番頭松田佐七に4度諌められるも、聞き入れなかった[1]天保の改革で倹約令が出され、物価の低迷により経営が悪化すると、東堀の豪邸は手放したが、浪費癖を完全には直さなかった[1]

ある晩浜辺で漁の様子を見て漁業進出を思い付き、大船を建造して巨大な網を作り、人を集めて大規模な操業を行ったが、収支が合わず、半年で巨額の損失を出した[1]。親族に非難されるも、「あなた方は幸運だ。小成に安んじている。私の志など分からないだろう。」と一笑に付した[1]

しばらくして奇病に罹り、歩行困難となった[1]。江戸近海で不漁が続き、商売も振わず、深川本店の財政が悪化し、番頭左七は子の弥吉に跡を譲った[1]。度々倹約を促され、遂に栖原賽神山麓に小屋を構えて隠居し、代々の遺稿を整理し、家業の変遷を記し、時折大声で謡曲を謡った[1]安政5年12月16日(1859年1月19日)病没し、烱遠と諡号され、兄海荘第2孫菊池晩香が跡を継いだ[1]。安政6年(1859年)10月施無畏寺に墓石が建立された[3]

家族

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天文21年(1552年)垣内武行が興した栖原垣内家の一族[4]

妻子はなかった[3]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 菊池 1918, p. 10.
  2. ^ 山口 1999, p. 7.
  3. ^ a b 湯浅町 1967, p. 953.
  4. ^ a b 山口 1999, p. 5.
  5. ^ 山口 1999, p. 6.
  6. ^ 菊池 1918, p. 12.
  7. ^ 湯浅町 1967, pp. 950–951.

参考文献

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