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垣内忠質

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
垣内 忠質
垣内忠質肖像 横田汝圭筆、亀田鵬斎文政5年(1822年)
時代 江戸時代後期
生誕 宝暦9年(1759年
死没 天保11年4月3日1840年5月4日
改名 垣内松之助、弥市、太郎兵衛、十兵衛
別名 子衛(子衡[1])(字)、茗渓(号)[2]、忠賢(ただかた)[3]
諡号 了斎
墓所 紀伊国有田郡栖原村施無畏寺
氏族 藤原菊池氏栖原垣内家
父母 垣内繁安
兄弟 垣内孝友
登美
垣内広敬(養子)
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垣内 忠質(かきうち ただかた)は江戸時代後期の豪商。紀伊国有田郡栖原村垣内太郎兵衛家第9代。文芸を嗜み、亀田鵬斎等と交流した。

生涯

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宝暦9年(1759年)[1]紀伊国栖原垣内家第8代垣内繁安の次男として生まれた[2]。幼名は松之助で、後に弥市と改めた[2]。兄が夭折したため家督を継ぎ、太郎兵衛と称した[2]。幼くして江戸茅場町本店に勤務し、成長後は房総半島を視察して家業に精通した[2]。支配人辻甚七と協議の上、新和泉町支店を弟垣内孝友に譲り、本店を深川西永代町に移転し、河岸地に蔵を構えて流通の便を図った[2]。30年間事業を拡大し、余剰資金で土地を購入して店舗を新設した[2]

老後は十兵衛と称し、隠宅の庭に花を植え、吉日には客を迎えて宴を開き、和歌・書道を披露した[2]。藩主徳川治宝西浜御殿に招かれて書を求められ、「先祖は代々俗務のことで招かれていたが、文雅のことで招かれたのは自分が初めてだ。」と喜んだ[2]。子垣内広敬・甥菊池海荘と郡内の豪家を回って屋敷・庭園の華美を諌め、義倉を設置したため[2]、数年後の天保の大飢饉[4]で郡内は被害を免れたという[2]

天保11年(1840年)3月病気に罹り、4月3日82歳で死去し、了斎の諡号を与えられた[2]。生前のある晩、義孫垣内惟聡と江戸でのことを語り合ったが、将来のことには一言も触れなかったという[2]施無畏寺に葬られ、天保12年(1841年)6月伊藤弘済撰・北畠蓼洲書・甥菊池海荘題額の墓碑が建てられた[1]

人物

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伊藤仁斎の聖学、米芾の書を学び、骨董・和歌・謡曲を好んだ[1]。酒は飲まなかった[1]

毎晩寝る前下女に蝋燭を持たせて子孫宅を巡回した。ある晩、姪孫保がいたずらで蝋燭を抜き出したところ、7,8個の欠片を一つに集めて使い回していたため、ばらばらに折れてしまったという[2]

文政5年(1822年)横田汝圭筆の肖像画が渥美コレクションに所蔵されるが[5]亀田鵬斎は讃において「我斯の像を睹るに、真に逼ること少きなり。」と酷評している[3]木村蒹葭堂『蒹葭堂日記』にも垣内太郎兵衛の名が見える[6]

親族

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  • 父:垣内繁安(第8代太郎兵衛、義同)
  • 兄 - 夭折[7]
  • 弟:垣内孝友(初代孫左衛門、淡斎)
  • 姉妹:栄(栄好) - 垣内元綽(太郎左衛門、敬念)妻[8]
  • 姉妹[7]
  • 妻:登美(妙了)[9] - 湯浅村谷輪与右衛門娘[10]。死別後、天保12年(1841年)広敬と大坂に移り、天保13年(1842年)1月21日77歳で死去し、施無畏寺に葬られた[9]
  • 長男 - 夭折[1]
  • 次男 - 夭折[1]
  • 養子:垣内広敬 - 弟孝友の子[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 湯浅町 1967, pp. 947–948.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 菊池 1918, p. 8.
  3. ^ a b 渥美 1995, pp. 210–214.
  4. ^ 湯浅町 1967, p. 855.
  5. ^ 鈴木 1998, pp. 120–121.
  6. ^ 塚田 2004, p. 136.
  7. ^ a b 湯浅町 1967, pp. 946–947.
  8. ^ 菊池 1918, p. 30オ.
  9. ^ a b 湯浅町 1967, pp. 948–949.
  10. ^ 菊池 1918, p. 29ウ.

参考文献

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  • 菊池三九郎『黄花片影』菊池三九郎、1918年4月。NDLJP:926715/17 
  • 湯浅町誌編纂委員会『湯浅町誌』湯浅町、1967年。 
  • 渥美国泰『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達』芸術新聞社、1995年1月。 
  • 鈴木泉「35 垣内忠質肖像 横田汝圭筆・亀田鵬斎賛」『江戸の文人交友録 亀田鵬斎とその仲間たち 渥美コレクションを中心に』世田谷立郷土資料館、1998年9月。 
  • 山口啓二「歴史と現在、そして未来 ―南紀栖原の豪商菊池家の文書整理を通じて見えてきたもの―」『名古屋大学日本史通信 ばさら』第2号、名古屋大学大学院文学研究科、1999年。 
  • 塚田孝「木村蒹葭堂と北堀江五丁目 ―近世大坂の都市社会構造との関連で」『大阪における都市の発展と構造』山川出版社、2004年3月。