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垣内重恕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
垣内 重恕
時代 江戸時代中期
生誕 享保2年(1717年
死没 天明8年2月23日1788年3月30日
改名 垣内三九郎、弥市、太郎兵衛、重兵衛
戒名 了順居士
墓所 紀伊国有田郡栖原村施無畏寺
氏族 藤原菊池氏栖原垣内家
父母 垣内繁福、妙誓
兄弟 垣内善蔵、繁安
妙喜
妙空
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垣内 重恕(かきうち しげ?)は江戸時代中期の豪農。紀伊国有田郡栖原村垣内太郎兵衛家第7代。

生涯

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享保2年(1717年)[1]紀伊国栖原垣内家第6代垣内繁福の三男として生まれた[2]。幼名は三九郎で、後に弥市と改めた[2]。兄2人が夭逝したため家督を継ぎ、太郎兵衛(弥太郎兵衛[3])と称し、父に従い江戸の店舗に勤務した[2]

享保20年(1735年)父が死去すると[4]、家業は弟垣内繁安に任せて帰郷し、山で狩りを楽しんだ[2]房総半島近海の漁業が衰退し、商業も不振となると、先祖垣内武行に倣って農業を再興し、吉川村に山林藪沢を購入して蜜柑・綿花を栽培し、叔父垣内嘉広とも協力して家業を立て直した[2]。老後、重兵衛(十兵衛[3])と改称した[2]

天明8年(1788年)2月23日72歳で死去し、施無畏寺に葬られ、了順居士の法号を与えられ[3]、甥垣内忠質の依頼による[5]亀田鵬斎撰・書の墓碑が建てられた[3]。子がなかったため、弟繁安が跡を継いだ[3]

人物

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温厚で人と争わず、酒・絃[3]・謡曲を好んだ[2]

親族

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  • 父:垣内繁福(第6代太郎兵衛、了玄)
  • 母:妙誓 - 北畠佐次右衛門娘[6]
    • 弟:善蔵[7]
    • 弟:垣内繁安(第8代太郎兵衛、義同)
    • 姉妹:須賀 - 堂茂右衛門妻[8]
    • 姉妹:妙蓮 - 久保忠助妻[8]
  • 妻:妙喜 - 垣内太次右衛門娘[6]

脚注

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  1. ^ 山口 1999, p. 6.
  2. ^ a b c d e f g 菊池 1918, p. 6ウ.
  3. ^ a b c d e f g 湯浅町 1967, p. 946.
  4. ^ 菊池 1918, p. 6オ.
  5. ^ 山口 1999, p. 7.
  6. ^ a b 菊池 1918, p. 29ウ.
  7. ^ 湯浅町 1967, p. 945.
  8. ^ a b c 菊池 1918, p. 30オ.

参考文献

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  • 菊池三九郎『黄花片影』菊池三九郎、1918年4月。NDLJP:926715/16 
  • 湯浅町誌編纂委員会『湯浅町誌』湯浅町、1967年。 
  • 山口啓二「歴史と現在、そして未来 ―南紀栖原の豪商菊池家の文書整理を通じて見えてきたもの―」『名古屋大学日本史通信 ばさら』第2号、名古屋大学大学院文学研究科、1999年。