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埴生村 (大阪府)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
はにうむら
埴生村
廃止日 1956年9月30日
廃止理由 新設合併
古市町高鷲町埴生村西浦村駒ヶ谷村丹比村南大阪町
現在の自治体 羽曳野市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 近畿地方
都道府県 大阪府
南河内郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 4.14 km2.
総人口 6,547
国勢調査1955年
隣接自治体 富田林市、南河内郡古市町、高鷲町、藤井寺町、西浦村、丹比村、平尾村
埴生村役場
所在地 大阪府南河内郡埴生村大字伊賀
座標 北緯34度33分39秒 東経135度34分47秒 / 北緯34.56072度 東経135.57986度 / 34.56072; 135.57986 (埴生村)座標: 北緯34度33分39秒 東経135度34分47秒 / 北緯34.56072度 東経135.57986度 / 34.56072; 135.57986 (埴生村)
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埴生村[1](はにうむら)は、大阪府南河内郡にあった。現在の羽曳野市の北西部、おおむね東除川の右岸にあたる。

地理

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歴史

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沿革

村政

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行政区は伊賀、向野、野々上[1]村長は以下の通りである。

村長

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  • 仲辻正巳 - 初代村長(のち南大阪町町長)、向野出身[2]
  • 今西勝治郎[1]

経済

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産業

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農業

産物は[1]。『大日本篤農家名鑑』によれば、埴生村の篤農家は山本、新熊姓の人物がいた[3]

食肉業

竹内街道に沿った牛馬集散の要地であった向野地区には、江戸時代から病牛馬の治療に当たる獣医や斃牛馬処理権が存在しており、その後、蓄積された解体技術を生かして屠畜へ転換し、1883年に和島勇次良が大阪府より正式に認可を受けて屠畜場を始め、1890年代(明治中期)にはすでに食肉業が農業を越えるほどに発展した[4][5]。村人は食肉行商に努力し、夏季の食肉販売を可能にするために、保存馬肉「さいぼし」を商品化するなど、食肉販売と屠牛を合わせて明治後期には大阪府下の食肉産業の筆頭格となっていた[4]1908年には、屠場が村に買収されて村営となり[4]、同年の埴生村総収入の47%は屠場収益が占めるに至った[6]1949年には「埴生食肉卸商業組合」を結成して近代的な屠場経営に尽力し、1955年には「南大阪食肉卸商業協同組合」と改称、大阪府下屠馬第一位、屠牛第三位の実績を達成、高度経済成長期には屠牛実績全国第三位となり、1976年には「羽曳野市食肉地方市場」を開設、1997年には全国第二位の屠牛場に成長した[4]

人口

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1930年に刊行された『市町村治績録 改訂第2版』によると、戸数487、人口2812[1]

施設

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名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

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交通

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出身人物

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 『市町村治績録 改訂第2版』大阪府24頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年4月9日閲覧。
  2. ^ 『和島岩吉人権論稿: 弁護士生活五十余年と人権』和島岩吉、部落解放研究所, 1985, p59
  3. ^ 『大日本篤農家名鑑』192頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年5月31日閲覧。
  4. ^ a b c d 書評 向野地域産業と歴史研究会「向野食肉産業百年史」八木正(大阪市立大学)『大阪の部落史通信』大阪の部落史委員会、1997年6月、p3-5。
  5. ^ 第5回部落問題フィールドワーク関西大学通信205号、1992年1月10日。
  6. ^ 『食肉の部落史』のびしょうじ、明石書店、1998年、p212

参考文献

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  • 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
  • 日本自治協会編『市町村治績録 改訂第2版』日本自治協会、1930年。
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 27 大阪府』角川書店、1983年。

関連項目

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