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堀川基俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
堀川基俊
時代 鎌倉時代中期 - 後期
生誕 弘長元年(1261年
死没 文保3年4月3日1319年4月23日
別名 号:亀谷大納言
官位 正二位権大納言
主君 亀山天皇後宇多天皇伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇
氏族 村上源氏庶流堀川家
父母 父:堀川基具、母:平惟忠
兄弟 具守基俊、道源、宗助
不明
基明、基親
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堀川 基俊(ほりかわ もととし)は、鎌倉時代の公卿。正二位権大納言亀谷大納言と号す。太政大臣堀川基具の二男。母は参議平惟忠女。

『徒然草』と基俊

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徒然草』第99段と第162段に基俊の名前が登場するが、いずれも基俊本人にまつわる話ではなく、基俊が検非違使別当に補されていた時の出来事が伝聞的に記されている。

鎌倉に下る

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正応2年(1289年)10月、久明親王が将軍として鎌倉に下向した時に付き従って鎌倉に東下した[1]。同様の内容が『増鏡』にも見えている[2]。この東下は久明親王の共をしてのことであったと『増鏡』(下)の解説にもある[3]。 また鎌倉に下る直前の様子は『吉続記』にも記述がある[4]

経歴

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以下、『公卿補任』及び『尊卑分脈』に基づいて記述する。

系譜

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  • 父:堀川基具(1232-1297)
  • 母:平惟忠
  • 妻:不詳
    • 男子:堀川基明
    • 男子:堀川基親

脚注

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  1. ^ 『勘仲記』正応2年10月10日条。
  2. ^ 『増鏡』(下)p. 20.
  3. ^ 『増鏡』(下)pp. 24-25.
  4. ^ 『吉続記』正応2年9月28日条。
  5. ^ 去る8日に位記を賜うべき云々という。藤原良宗が超越されることを訴えたためという。

参考文献

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  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)
  • 勘仲記』(三)、史料大成28、内外書籍株式会社
  • 吉続記』、史料大成23、内外書籍株式会社
  • 新訂『徒然草』、西尾 実・安良岡康作校注、岩波文庫
  • 増鏡』(上)(中)(下)、全訳注、井上宗雄、講談社学術文庫