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堀川広益

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
堀川広益
時代 江戸時代中期
生誕 元禄7年(1694年
死没 宝暦6年4月7日1756年5月5日
別名 通称:繁丸、左門、修理
官位 従四位上侍従兵部大輔
幕府 江戸幕府 高家旗本
主君 徳川家宣家継吉宗家重
氏族 久我家庶流高家有馬氏
父母 父:久我通名、母:西園寺公満
兄弟 広幡豊忠広益櫛笥隆兼室、長松院、厚君、伊達村胤室、佐竹義本
正室:秀小路養女
中根正輝有馬広之近藤正孝安部信成犬塚忠休、娘(畠山国祐室)、娘(伊達村候養女、小笠原信房室)、娘(松平忠勧室)、養女(久我通名娘、高島広行室)
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堀川 広益(ほりかわ ひろます)は、江戸時代中期の高家旗本権中納言久我通名の子。通称は繁丸、左門、修理。官位従四位上侍従兵部大輔

略歴

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父・通名は、祖父・久我広通の長男であったものの、病気のために嫡子の地位を辞退していた。そのため広益は江戸に下り、幕府に仕えることになった。宝永7年(1710年)12月25日に6代将軍徳川家宣御目見し、12月27日に御側高家に就任する。それに伴い従五位下侍従・兵部大輔に叙任し、上野国群馬郡内で500石を与えられる。後に従四位下、従四位上に昇進する。なお、広益の高家登用をもって、全ての高家が出揃うことになった。

享保元年(1716年)5月16日、御側高家の廃止により高家に転任する。宝暦2年(1752年)4月23日、高家肝煎となる。宝暦6年(1756年)4月7日、死去。享年63。

系譜

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子女は5男4女。そのうち1人は養女である[1]

脚注

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先代
高家有馬家初代当主
1710年 - 1756年
次代
有馬広之