堀川広益
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄7年(1694年) |
死没 | 宝暦6年4月7日(1756年5月5日) |
別名 | 通称:繁丸、左門、修理 |
官位 | 従四位上・侍従、兵部大輔 |
幕府 | 江戸幕府 高家旗本 |
主君 | 徳川家宣→家継→吉宗→家重 |
氏族 | 久我家庶流高家有馬氏 |
父母 | 父:久我通名、母:西園寺公満娘 |
兄弟 | 広幡豊忠、広益、櫛笥隆兼室、長松院、厚君、伊達村胤室、佐竹義本室 |
妻 | 正室:秀小路養女 |
子 | 中根正輝、有馬広之、近藤正孝、安部信成、犬塚忠休、娘(畠山国祐室)、娘(伊達村候養女、小笠原信房室)、娘(松平忠勧室)、養女(久我通名娘、高島広行室) |
堀川 広益(ほりかわ ひろます)は、江戸時代中期の高家旗本。権中納言・久我通名の子。通称は繁丸、左門、修理。官位は従四位上・侍従、兵部大輔。
略歴
[編集]父・通名は、祖父・久我広通の長男であったものの、病気のために嫡子の地位を辞退していた。そのため広益は江戸に下り、幕府に仕えることになった。宝永7年(1710年)12月25日に6代将軍徳川家宣に御目見し、12月27日に御側高家に就任する。それに伴い従五位下侍従・兵部大輔に叙任し、上野国群馬郡内で500石を与えられる。後に従四位下、従四位上に昇進する。なお、広益の高家登用をもって、全ての高家が出揃うことになった。
享保元年(1716年)5月16日、御側高家の廃止により高家に転任する。宝暦2年(1752年)4月23日、高家肝煎となる。宝暦6年(1756年)4月7日、死去。享年63。
系譜
[編集]子女は5男4女。そのうち1人は養女である[1]。
脚注
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