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堀江帰一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
堀江帰一

堀江 帰一(ほりえ きいち、1876年4月27日 - 1927年12月9日)は、日本の経済学者財政学者。長らく慶應義塾大学部理財科(のちの経済学部)を主導した。東京府出身。

人物

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徳島藩士滝山正門の長男として生まれ、17歳で叔父の堀江家の養子となった[1]幼稚舎より慶應義塾で学び、大学に入る前にはアダム・スミスの『国富論』を読了していたという。1896年大学部理財科卒業。その後、三井銀行に入社。時事新報社に移って経済関係の論説を執筆した。その頃も読書量は同僚も驚嘆するほどで、福澤諭吉からも期待される人材となっていた。

大学部教員養成を目指す慶應義塾は、1899年神戸寅次郎川合貞一気賀勘重青木徹二名取和作・堀江帰一の6名を欧米へ派遣留学させることとした。この第1回留学生として堀江は、ハーバード大学ロンドン大学ベルリン大学に学んだ。1902年、帰国して慶應義塾の教壇に立ち、銀行論・貨幣論・財政論を講義した。1912年に理財科主任、1917年に理財科学長、1920年慶應義塾大学経済学部長となった[2]。また大学の教壇に立ちながら、時事新報の記者も兼ねていたが、こちらは1909年に退社している。

当初は自由主義に立脚していたが、日露戦争後、社会問題への関心を深めるようになる。1910年には再び欧米へ1年間留学、救貧法工場法社会問題などを研究するとともに、ドイツでは社会政策学会の重鎮であったルヨ・ブレンターノを訪問した。帰国後は、社会問題講座を開設し、自ら講義を担当した。また、鈴木文治らが1912年友愛会を結成すると評議員として参加した。

第1次世界大戦によって社会問題が本格化すると、主要な産業の国有・国営化、労働者による産業管理社会的格差の是正など、経済体制を抜本的に改革することが必要だと考えるようになった。さらに、産業民主主義と政治上の民主主義は不可分であるとして、金権政治を排し普通選挙制を実現すべしと主張した。このような彼の思想は、1921年に行った講演のタイトルから「国家資本主義」と呼ばれている。

1926年社会民衆党の結成に際しては、安部磯雄吉野作造らとともに呼びかけ人として名を連ねた。

1927年金融恐慌では、枢密院政府の対応を批判し、まずは銀行自身が経営基盤を強固にして責任を負うべきだと説いた。その年の12月、京都市岡崎公会堂での講演中に突然脳出血で倒れ、1週間後に死去した。墓所は青山霊園(14-1ロ-8-4)

家族

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著書

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  • 『貨幣制度論概要』(1902年)
  • 『ダンバー氏銀行論』(1903年)
  • 『財政学』(1909年)
  • 『労働組合論』(1920年)
  • 『経済組織改造論』(1920年)
  • 『金融と恐慌』(1926年)
  • 『堀江帰一全集』全10巻(改造社、1928-1929年)
    • 1 財政篇
    • 2 貨幣及金融篇 上
    • 3 貨幣及金融篇 下
    • 4 国際経済論 上
    • 5 国際経済論 中
    • 6 国際経済論 下
    • 7 社会問題篇
    • 8 雑纂 上
    • 9 雑纂 下
    • 10 雑誌論文・日記及書簡

脚注

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  1. ^ 堀江帰一コトバンク
  2. ^ 慶應義塾150年史資料集編纂委員会編 『慶應義塾150年史資料集 第2巻』 慶應義塾、2016年、1016頁
  3. ^ 『福沢諭吉と三人の後進たち』西川俊作、1985、p133
  4. ^ 女那川沖の東京丸坐礁事件函館市/函館市地域史料アーカイブ
  5. ^ 東京丸遭難顛末書函館市/函館市地域史料アーカイブ
  6. ^ a b 『福沢手帖』第13号、福沢諭吉協会、1977、「三宅・滝山・福沢と父堀江帰一」p18
  7. ^ 堀井助保『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月]
  8. ^ [渋沢栄一を中心とした出資者経営者の会社設立・運営メカニズムの一考察]島田昌和、文教大学、経営論集 第15巻第1号 2005年
  9. ^ 堀江帰一『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  10. ^ 滝山良一『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  11. ^ 『太平洋戦争放送宣伝資料』第1巻,北山節郎, 緑蔭書房, 1997 p7

外部リンク

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