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堀越古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
堀越古墳

墳丘・石室開口部
所在地 群馬県前橋市堀越町861-1
位置 北緯36度24分49.25秒 東経139度8分55.30秒 / 北緯36.4136806度 東経139.1486944度 / 36.4136806; 139.1486944座標: 北緯36度24分49.25秒 東経139度8分55.30秒 / 北緯36.4136806度 東経139.1486944度 / 36.4136806; 139.1486944
形状 円墳
規模 直径25m
埋葬施設 両袖式横穴式石室(截石切組積み)
出土品 須恵器土師器、(伝)小刀ほか
築造時期 7世紀後半
史跡 群馬県指定史跡「堀越古墳」
地図
堀越古墳の位置(群馬県内)
堀越古墳
堀越古墳
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堀越古墳(ほりこしこふん)は、群馬県前橋市堀越町にある古墳。形状は円墳。群馬県指定史跡に指定されている。

概要

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群馬県中部、赤城山南麓の台地中腹の緩傾斜面(標高約150メートル)に山寄せで築造された古墳である。1869年明治2年)に乱掘されているほか、1972年昭和47年)に前庭部を中心に発掘調査が実施されている[1]

墳形は円形で、直径25メートルを測る[2]。墳丘外表で埴輪は認められない[1]。また墳丘南側には幅2.5メートルの周溝が巡らされるが、北側(高所側)には認められない[1]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室である。玄室・羨道・前庭部からなる石室で、截石切組積みによって構築される。石室内の副葬品として、明治2年の乱掘では小刀などが出土したというほか(所在不明)[2]、前庭部の調査では左右の石組みの壁に接して土師器坏2(右壁)・須恵器坏蓋(左壁)が検出されている[1]

築造時期は、古墳時代終末期7世紀後半[3][1](または7世紀末-8世紀初頭[2])頃と推定される。被葬者は明らかでないが、地名から山ノ上碑高崎市山名町、国の特別史跡)に見える「大胡臣」との関連を指摘する説がある[3][2]

古墳域は1973年(昭和48年)に群馬県指定史跡に指定されている。

遺跡歴

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  • 1869年明治2年)、乱掘、副葬品出土(現在は所在不明)[2]
  • 1938年昭和13年)の『上毛古墳綜覧』に「大胡町第15号墳」として登載。
  • 1955年(昭和30年)、調査[3]
  • 1972年(昭和47年)、発掘調査(大胡町教育委員会)[3][1]
  • 1973年(昭和48年)12月21日、群馬県指定史跡に指定。

埋葬施設

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石室俯瞰図
左から右に、羨道・玄室。
石室展開図

埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されている。石室の規模は次の通り[1]

  • 石室全長:6.93メートル
  • 玄室:長さ3.20メートル、幅1.88メートル(奥壁)、高さ2.10メートル
  • 羨道:長さ3.39メートル、幅0.82メートル(奥)
  • 前庭部:長さ3.55メートル、幅5.60メートル(奥)・8.00メートル(前)

石室の石材は硬質の安山岩で、截石切組積みによって構築される。玄室と羨道の間は玄門によって区切られるが、この玄門には精巧な加工が認められる[1]

石室前面の前庭部は台形状で、奥・左右の三方を石組みで囲っており[1]、前庭部内は前では土間状、奥では玉石敷の前後2区に分かれる[2]

文化財

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群馬県指定文化財

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  • 史跡
    • 堀越古墳 - 1973年(昭和48年)12月21日指定[4]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 堀越古墳(古墳) 1989.
  2. ^ a b c d e f 史跡説明板。
  3. ^ a b c d 堀越古墳(平凡社) 1987.
  4. ^ 群馬県内の県指定文化財一覧 (PDF) (群馬県ホームページ)。

参考文献

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  • 史跡説明板
  • 「堀越古墳」『日本歴史地名大系 10 群馬県の地名』平凡社、1987年。ISBN 4582490107 
  • 松本浩一「堀越古墳」『日本古墳大辞典東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607 

外部リンク

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