堀越古墳
堀越古墳 | |
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墳丘・石室開口部 | |
所在地 | 群馬県前橋市堀越町861-1 |
位置 | 北緯36度24分49.25秒 東経139度8分55.30秒 / 北緯36.4136806度 東経139.1486944度座標: 北緯36度24分49.25秒 東経139度8分55.30秒 / 北緯36.4136806度 東経139.1486944度 |
形状 | 円墳 |
規模 | 直径25m |
埋葬施設 | 両袖式横穴式石室(截石切組積み) |
出土品 | 須恵器・土師器、(伝)小刀ほか |
築造時期 | 7世紀後半 |
史跡 | 群馬県指定史跡「堀越古墳」 |
地図 |
堀越古墳(ほりこしこふん)は、群馬県前橋市堀越町にある古墳。形状は円墳。群馬県指定史跡に指定されている。
概要
[編集]群馬県中部、赤城山南麓の台地中腹の緩傾斜面(標高約150メートル)に山寄せで築造された古墳である。1869年(明治2年)に乱掘されているほか、1972年(昭和47年)に前庭部を中心に発掘調査が実施されている[1]。
墳形は円形で、直径25メートルを測る[2]。墳丘外表で埴輪は認められない[1]。また墳丘南側には幅2.5メートルの周溝が巡らされるが、北側(高所側)には認められない[1]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室である。玄室・羨道・前庭部からなる石室で、截石切組積みによって構築される。石室内の副葬品として、明治2年の乱掘では小刀などが出土したというほか(所在不明)[2]、前庭部の調査では左右の石組みの壁に接して土師器坏2(右壁)・須恵器坏蓋(左壁)が検出されている[1]。
築造時期は、古墳時代終末期の7世紀後半[3][1](または7世紀末-8世紀初頭[2])頃と推定される。被葬者は明らかでないが、地名から山ノ上碑(高崎市山名町、国の特別史跡)に見える「大胡臣」との関連を指摘する説がある[3][2]。
古墳域は1973年(昭和48年)に群馬県指定史跡に指定されている。
遺跡歴
[編集]- 1869年(明治2年)、乱掘、副葬品出土(現在は所在不明)[2]。
- 1938年(昭和13年)の『上毛古墳綜覧』に「大胡町第15号墳」として登載。
- 1955年(昭和30年)、調査[3]。
- 1972年(昭和47年)、発掘調査(大胡町教育委員会)[3][1]。
- 1973年(昭和48年)12月21日、群馬県指定史跡に指定。
埋葬施設
[編集]埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されている。石室の規模は次の通り[1]。
- 石室全長:6.93メートル
- 玄室:長さ3.20メートル、幅1.88メートル(奥壁)、高さ2.10メートル
- 羨道:長さ3.39メートル、幅0.82メートル(奥)
- 前庭部:長さ3.55メートル、幅5.60メートル(奥)・8.00メートル(前)
石室の石材は硬質の安山岩で、截石切組積みによって構築される。玄室と羨道の間は玄門によって区切られるが、この玄門には精巧な加工が認められる[1]。
石室前面の前庭部は台形状で、奥・左右の三方を石組みで囲っており[1]、前庭部内は前では土間状、奥では玉石敷の前後2区に分かれる[2]。
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玄室(奥壁方向)
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玄室(開口部方向)
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玄門(玄室方向)
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羨道(開口部方向)
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羨道(玄室方向)
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開口部
文化財
[編集]群馬県指定文化財
[編集]- 史跡
- 堀越古墳 - 1973年(昭和48年)12月21日指定[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 史跡説明板
- 「堀越古墳」『日本歴史地名大系 10 群馬県の地名』平凡社、1987年。ISBN 4582490107。
- 松本浩一「堀越古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
外部リンク
[編集]- 大胡の文化財を訪ねて > 堀越古墳 - 前橋市ホームページ