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堤正誼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
堤正誼
つつみ まさよし
生年月日 1834年12月6日
没年月日 (1921-07-19) 1921年7月19日(86歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町
(現・東京都渋谷区
前職 宮内官僚
称号 勲二等瑞宝章
正四位

在任期間 1911年7月10日 - 1916年11月22日
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堤 正誼(つつみ まさよし、1834年12月6日天保5年11月6日)- 1921年7月19日)は、幕末越前福井藩士明治宮内官僚政治家。宮内次官貴族院議員男爵位階勲等正二位勲一等幼名は市五郎。

経歴

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福井藩士・堤甚平の長男として生まれる。安政四年、橋本左内とともに江戸に出て江戸幕府の海軍教授所である軍艦教授所で航海術を学び、その後幕末はおもに軍事関係の職についた。明治11年に明治維新後に福井藩権大参事を務める。

明治4年9月1871年)、宮内省に移籍し侍従に就任。以後、侍従番長、宮内少丞、宮内権大丞、内匠課長、調度課長、宮内大書記官兼皇太后宮亮、出納課長、庶務課長、調度局長兼大膳亮などを歴任。

1887年9月、内匠頭となり、兼調度局長、兼御料局長官、兼閑院宮別当などを務める。1897年12月、宮内次官に就任。以後、内匠頭、宮中顧問官、兼東宮御所造営局長を歴任した。とくに内匠頭として任ぜられた期間は、明治20年から明治37年までと長期にわたり、その間に担当した作品は膨大なものであった。1900年5月、男爵を叙爵。1911年7月10日、貴族院男爵議員に選出され[1]1916年11月22日まで在任した[2]

1921年7月19日、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町穏田の邸に於いて薨去享年八十八。墓所は文京区吉祥寺

栄典

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位階
勲章等

親族

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脚注

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  1. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、20頁。
  2. ^ 『官報』第1295号、大正5年11月25日。
  3. ^ 『官報』第1019号「叙任」1886年11月20日。
  4. ^ 『官報』第1286号「叙任及辞令」1887年10月10日。
  5. ^ 『官報』第2776号「叙任及辞令」1892年9月27日。
  6. ^ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
  7. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  8. ^ 『官報』第2100号「叙任及辞令」1890年7月1日。
  9. ^ 『官報』第4499号「叙任及辞令」1898年6月30日。
  10. ^ 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。
  11. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  12. ^ a b c d e 堤正誼『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  13. ^ 堤正誼『人事興信録』初版 明治36(1903)年4月
  14. ^ 加藤恒コトバンク
  15. ^ 増田礼作コトバンク
  16. ^ 増田礼作『人事興信録』初版 明治36(1903)年4月
  17. ^ 贈正五位丸田監物『勤王烈士伝』 萩原正太郎 頒功社 明39.4
  18. ^ 丸田秀実『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  19. ^ 堤正之『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
  • 堤新三著、「鬼哭啾啾―ビルマ派遣海軍深見部隊全滅の記」、毎日新聞社、1981年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
公職
先代
杉孫七郎
日本の旗 東宮御所御造営局長
1900年 - 1906年
次代
(廃止)
先代
股野琢
肥田浜五郎(→欠員)
日本の旗 内匠頭
1898年 - 1904年
1887年 - 1897年
次代
片山東熊
股野琢
先代
田中光顕
日本の旗 宮内次官
1897年 - 1898年
次代
川口武定
先代
香川敬三
日本の旗 閑院宮別当
1893年
次代
三宮義胤
先代
肥田浜五郎
日本の旗 御料局長官
1888年
次代
肥田浜五郎
先代
(新設)
日本の旗 調度局長
1886年 - 1887年
次代
三宮義胤
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
堤(正誼)家初代
1900年 - 1921年
次代
堤正之