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堤猷久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
堤猷久
つつみ みちひさ
生年月日 1853年4月14日
出生地 日本の旗 日本 豊前国京都郡行事村
(現福岡県行橋市行事)
没年月日 (1925-01-20) 1925年1月20日(71歳没)
死没地 日本の旗 日本 大阪府大阪市
前職 福岡県農務課長
所属政党 (大成会→)
(中央交渉会→)
(国民協会→)
(公同会→)
(無所属→)
憲政本党

選挙区 (福岡県第7選挙区→)
(福岡県第8選挙区→)
福岡県郡部選挙区
当選回数 5回
在任期間 1890年7月1日 - 1893年12月30日
1894年9月1日 - 1897年12月25日
1902年8月10日 - 1903年12月11日
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堤 猷久(つつみ みちひさ、1853年4月14日(嘉永6年3月7日[1][2])- 1925年大正14年)1月20日[1][3])は、明治から大正期の農業技術者・公吏政治家衆議院議員。通称・荘蔵[1]

経歴

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豊前国京都郡行事村[1]福岡県[3]京都郡行橋町[4]を経て現行橋市行事)で、酒造業・堤半蔵の長男として生れ[1][2]、堤兵蔵の養嗣子となる[2][注釈 1]文久3年(1863年)から慶応2年(1866年)まで佐藤堪蔵に師事し漢学を学んだ[1]。1873年(明治6年)頃、上京してオランダ人ファン・カステールから英語、数学を学んだ[1]。1875年(明治8年)から1876年(明治9年)まで東京学農社で農学、理化学を研究した[1]

1877年(明治10年)福岡県庁に入り判任官10等属に任官し勧農掛に配属され、県下の農業指導に尽力[1]。県立勧農試験場長、県立農学校長、県農務課長を歴任し[1][2][3][4]、1890年(明治23年)6月に退官した[1]

1890年7月、第1回衆議院議員総選挙の福岡県第7区(大成会所属)で初当選し[1][2][5]、以後、第8回総選挙まで再選され、衆議院議員に通算5期在任した[1][3][4]

実業界では、金辺鉄道監査役、若松築港(現若築建設)取締役、筑豊鉄道重役、豊州鉄道重役、九州鉄道重役などを務めた[1][3][4][5]

1925年1月、大阪で病のため死去した[1]

国政選挙歴

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『新撰衆議院議員列伝』162頁では、幼くして父を亡くし、伯父孟久に養われ、孟久の子、久敬の家政に与ったとしている。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『増補 新豊前人物評伝』264-267頁。
  2. ^ a b c d e 『人事興信録 初版』546-547頁。
  3. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』414頁。
  4. ^ a b c d 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』294頁。
  5. ^ a b 『新撰衆議院議員列伝』162頁。
  6. ^ a b c d e 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』57頁。
  7. ^ a b c 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』113頁。
  8. ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』35頁。
  9. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』34頁。

参考文献

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  • 田中重策篇『新撰衆議院議員列伝』日本現今人名辞典発行所、1903年。
  • 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。333
  • 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 中村十生『増補 新豊前人物評伝』新豊前人物評伝刊行会、1978年。
  • 衆議院参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。