堤達男
堤 達男 | |
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堤 達男 | |
生誕 |
1918年10月18日 静岡県賀茂郡仁科村 |
死没 | 1988年 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京美術学校彫刻科卒業 |
著名な実績 | 彫塑 |
代表作 |
『草原を駆ける男』 『徳川家康公之像』 |
運動・動向 | 鳩巣会 |
子供 | 堤直美 |
受賞 |
新文部省美術展覧会入選 日本美術展覧会特選 静岡県文化奨励賞 |
民族 | 大和民族 |
堤 達男(つつみ たつお、1918年〈大正7年〉10月18日 - 1988年〈昭和63年〉)は、日本の彫刻家、教育者。
静岡県立松崎高等学校講師、鳩巣会会長(初代)などを歴任した。
来歴
[編集]静岡県出身の彫刻家である[1]。日本美術展覧会での特選を機に評価を確立し[1]、伊豆半島で制作に勤しんだ[1]。また、高等学校にて教鞭を執り[1]、後進の育成にも務めた。彫刻家集団である「鳩巣会」では会長に推戴された[1]。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]1918年(大正7年)10月18日、静岡県賀茂郡仁科村にて生まれた[1][† 1]。幼いころより美術に関心を持ち[1]、彫刻家になることを志望していた[1]。静岡県立豆陽中学校に進学して学ぶ[1][† 2]。上京して1936年(昭和11年)に東京美術学校に進学し[1][† 3]、彫刻科で学んだ[1]。在学中より作品を発表するなど精力的に活動しており、新文部省美術展覧会には入選を2回果たしている[1][† 4]。1941年(昭和16年)に東京美術学校を卒業した[1]。
太平洋戦争の戦火が激しくなる中、召集され1943年(昭和18年)3月に入営した[1]。太平洋戦争終結後、復員し1946年(昭和21年)5月に帰国した[1]。
彫刻家として
[編集]復員後は故郷の静岡県賀茂郡仁科村に戻り[1]、本格的に彫刻に取り組むようになる[1]。『自由の樹を植えるために』が高く評価され、1947年(昭和22年)10月に日本美術展覧会にて特選となった[1][† 5]。これにより新進気鋭の彫刻家としての立場を確立した[1]。これ以降、日本美術展覧会においては無鑑査で出品が認められるようになる[1]。
また、静岡県立松崎高等学校では講師として教壇に立ち[1]、美術を講じた。1963年(昭和38年)、堤の門弟を中心とする彫刻家集団「鳩巣会」が結成されることになり[1]、堤はその会長に就任した[1]。1965年(昭和40年)には日本美術展覧会の審査員に就任した[1]。1988年(昭和63年)に死去した[1]。
作風
[編集]専門は彫塑であり、特に人物像を数多く制作していた[1]。その作品は雄大さや力強さが特徴であると評されている[1]。また、彫刻とは本来屋外にあるべきものだと主張していた[1]。これまでの業績が評価され、1967年(昭和42年)に静岡県文化奨励賞が授与されている[1]。
静岡県静岡市の駿府城公園には『やすらぎの塔』や『徳川家康公之像』の2作品が設置されており、どちらも代表作の一つとされてきた。『やすらぎの塔』は戦没学徒を追悼する慰霊碑として1958年(昭和33年)11月に建立されたものだが[2]、2001年(平成13年)4月の地震により撤去されることになった[2]。それ以来、塔の再建を求める署名活動が市民の間で起きるなど[2]、長年に亘って塔の再建を求める運動が展開されてきた[2]。2020年(令和2年)には復元を求める署名が市長の田辺信宏らに提出された[3]。その後、2023年(令和5年)に市長が田辺から難波喬司に交代すると、2024年(令和6年)7月になって難波が『やすらぎの塔』再建を表明し[4]、再建に向けて動き始めた。
静岡県下田市の新下田橋には人魚像が建立されている[5]。1957年(昭和32年)に橋が竣工すると[5]、その欄干に彫刻を設置することになり、堤が手掛けることになった[5]。堤は四季を表す4体の人魚像を制作し[5]、1958年(昭和33年)に設置した[5]。この4体の人魚像は下田市役所のウェブサイトにて「下田まち遺産」の一つとして紹介されている[5]。
静岡県三島市の日本大学三島高等学校には『希望の像』と『思索の像』の2体が建立されている[6]。
家族・親族
[編集]息子の堤直美も彫刻家として知られている[7]。
略歴
[編集]- 1918年 - 静岡県賀茂郡仁科村にて誕生[1]。
- 1941年 - 東京美術学校彫刻科卒業[1]。
- 1943年 - 入営[1]。
- 1946年 - 復員[1]。
- 1963年 - 鳩巣会会長[1]。
- 1965年 - 日本美術展覧会審査員[1]。
- 1988年 - 死去[1]。
賞歴
[編集]作品
[編集]- 自由の樹を植えるために(1947年)[1]
- やすらぎの塔(1958年)[2]
- 草原を駆ける男(1962年)[1]
- 茶やぶきた種生みの親杉山彦三郎翁像(1962年)
- 鈴木梅太郎先生像(1973年)
- 徳川家康公之像(1973年)
脚注
[編集]註釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an 「堤達男」『堤 達男 | 松崎町』松崎町役場、2019年1月23日。
- ^ a b c d e 矢吹孝文稿「『やすらぎの塔』再建、険しい道」『静岡)「やすらぎの塔」再建、険しい道 [静岡県]:朝日新聞デジタル』朝日新聞社、2019年12月17日。
- ^ 「駿府城公園『やすらぎの塔』――市民団体、復元求め署名提出」『駿府城公園「やすらぎの塔」 市民団体、復元求め署名提出|静岡新聞DIGITAL』静岡新聞社、2020年8月12日。
- ^ 池谷遥子稿「駿府城公園の『やすらぎの塔』再建へ――静岡市長が方針」『駿府城公園の「やすらぎの塔」再建へ 静岡市長が方針|静岡新聞DIGITAL』静岡新聞社、2024年7月12日。
- ^ a b c d e f 「新下田橋――人魚像」『133 下田まち遺産 新下田橋 人魚像 | 下田市』下田市役所、2023年3月5日。
- ^ 「卒業記念像二基」『日本大学三島高等学校同窓会会報』2号、日大三島高校同窓会、1973年3月25日、4頁。
- ^ 「5000年先も大衆に感動を――江原素六像を作る彫刻家――堤直美さん(70)」『ひと・しずおか:5000年先も大衆に感動を 江原素六像を作る彫刻家 堤直美さん(70)/静岡 | 毎日新聞』毎日新聞社、2021年5月2日。