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塚本哲也

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塚本 哲也(つかもと てつや、1929年4月29日 - 2016年10月22日[1])は、日本新聞記者作家大学教授

来歴・人物

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群馬県館林市生まれ。旧姓・木村。木村裕主は実兄。1954年東京大学経済学部卒、毎日新聞社に入社[2]政治部記者として岸信介を担当する。ヨーロッパ留学を検討し、オーストリア大使館を訪れ、ウィーン留学を決意。ウィーン留学経験のある人に話を聞きたいといって紹介されたのがオーストリア政府給費留学生だったピアニストの塚本ルリ子だった。1962年6月、留学生試験に合格後、哲也はルリ子と結婚し塚本姓となる。ルリ子の父(塚本憲甫)は国立がんセンター総長などを務めた医師だった。1962年9月末、ウィーンへ出発し、ウィーン大学法学部国際法を学ぶ。哲也に続いてルリ子も二度目のウィーンへ向かう。特派員辞令を受けた哲也はルリ子とともにハンガリー、ポーランド、東ドイツ、ルーマニア、ブルガリアなど東欧諸国訪問。1966年3月、日本帰国。1968年3月、西ドイツ・ボンへ単身赴任。3ヶ月後の1968年6月にはボンに来訪したルリ子と再会。プラハ、ウィーンを行き来しながら「プラハの春」を取材した。その後、1970年には西ドイツのヴァルター・シェール外相に同行して何度かソ連を訪れる。1973年6月、日本帰国。1978年に論説委員となる。1986年3月毎日新聞退社後、4月に防衛大学校教授に就任。1992年、防衛大学校図書館長。1995年3月、防衛大学校退職後、4月、東洋英和女学院大学社会学部教授に就任。1999年より2003年まで、同大学学長を務めた。[3]

受賞など

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晩年

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2002年、脳出血で倒れ、右半身麻痺となる。群馬県のケアホーム新生会に移住し、リハビリを兼ねて左手で打つパソコンを始め著述活動を再開。『マリー・ルイーゼ』を執筆中の2005年に、ルリ子夫人は、腹部大動脈瘤破裂で急逝している。墓所は多磨霊園[7]

著書

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翻訳

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  • ゲルハルト・ダンプマン『孤立する大国ニッポン』TBSブリタニカ、1981年。

脚注・出典

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