塚本政登士
塚本 政登士 | |
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生誕 |
1908年12月4日 日本 福岡県 |
死没 | 1983年8月8日(74歳没) |
所属組織 |
大日本帝国陸軍 警察予備隊 保安隊 陸上自衛隊 |
軍歴 |
1930 - 1945(日本陸軍) 1952 - 1952(予備隊) 1952 - 1954(保安隊) 1954 - 1985(陸自) |
最終階級 |
陸軍中佐(日本陸軍) 陸将(陸上自衛隊) |
塚本 政登士(つかもと まさとし、1908年〈明治41年〉12月4日[1] - 1983年〈昭和58年〉8月8日[2])は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官、陸将。陸士42期、陸大53期。兵科は砲兵科(特科)。
経歴
[編集]塚本政重の長男として福岡県に生まれる[1]。福岡県中学修猷館[3]、熊本陸軍幼年学校(27期)[4]を経て、1930年(昭和5年)7月、陸軍士官学校(42期)を卒業[5]。
砲兵少尉に任官し、野戦重砲兵第1連隊附となる。その後、陸軍砲工学校を経て、1940年(昭和15年)6月、陸軍大学校(53期)を卒業し、砲兵大尉に進み、北支那方面軍参謀となる。ここで、4年間に亘って、ゲリラ戦を展開する毛沢東軍(八路軍)と戦っている[6]。その後、大本営参謀(戦争指導班)、再度北支方面軍参謀、1944年(昭和19年)3月、砲兵中佐に進級[1]、同年4月、台湾第71師団参謀となり終戦[5]。
戦後、6年間田園生活をした後、1952年(昭和27年)7月、警察予備隊に入隊。同年8月、第62連隊長、陸上自衛隊特科学校長、陸上自衛隊富士学校特科部長、1957年(昭和32年)8月、陸将補に昇任し、陸上自衛隊高射学校長、第1特科団長を歴任[5]。
1961年(昭和36年)8月、第8混成団長に就任、翌1962年(昭和37年)7月、陸将に昇任する。同年8月に、第8混成団が第8師団に称号変更、改編されると、その師団長に就任。その後、1964年(昭和39年)3月、富士学校長を経て、1965年(昭和40年)3月、北部方面総監に就任する[1]。1966年(昭和41年)7月1日退官[5]。
1983年(昭和58年)8月8日、すい臓がんで死去した(享年74)[2]。叙・従四位[7]。
栄典
[編集]- 勲二等瑞宝章 - 1979年(昭和54年)4月29日[8]
著書
[編集]- 『進め自衛隊──ある野戦将軍の回想と提言』(軍事研究社、1971年)
- 『日本防衛史』(原書房、1976年)
脚注
[編集]- ^ a b c d 『人事興信録第23版』(人事興信所、1966年) ツ-23頁
- ^ a b 『偕行 10月号』(偕行社、1983年) 61頁。
- ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員19頁(「塚本政登志」として)
- ^ 塚本政登士『日本防衛史』(原書房、1976年)著者略歴
- ^ a b c d 塚本政登士『進め自衛隊──ある野戦将軍の回想と提言』(軍事研究社、1971年)塚本政登士略歴
- ^ 塚本政登士『進め自衛隊──ある野戦将軍の回想と提言』(軍事研究社、1971年)38-197頁
- ^ 『官報』本紙第16984号(昭和58年9月12日)
- ^ 『官報』本紙第15685号(昭和54年5月2日)
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