塩冶高清
塩冶 高清(えんや たかきよ 生年不詳-天正9年10月24日(1581年11月20日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将。但馬塩冶氏の当主。官職は周防守。塩冶綱高の子[1]。
来歴
[編集]塩冶高清は、出雲源氏の嫡流・塩冶氏の一族で、のち但馬に移った但馬塩冶氏の当主[2]。但馬国芦屋城を本拠地とし、山陰の複雑な山岳の地形を熟知し神出鬼没に兵を動かしたため、海賊の将と呼ばれた奈佐日本之介に対比して「山賊衆」と羽柴秀吉に言わしめたが、もちろん山賊ではない。永禄12年(1569年)、但馬に侵攻した尼子党と織田氏の前に帰順の意を示す。 同年8月、山名豊国と通じたことに激怒した武田高信らの軍勢によって攻撃されるもこれを撃退、その後は毛利氏の傘下に入る。 天正2年(1574年)~4年(1576年)にかけてはかつて自身を攻撃した高信を保護し、高信の復権と助命を毛利氏に嘆願[3]していた。しかし、高信は豊国によって謀殺された。 後には高清自身も織田氏の侵攻には抗すべくもなく芦屋城を追われ、ついに天正9年(1581年)に吉川経家率いる毛利勢と結んで、因幡国鳥取城において織田氏の中国攻めを担当していた秀吉と対峙することになる。高清は鳥取城の北方に位置する雁金山に雁金山城を築き、日本之介の守る丸山城とともに鳥取城の兵站線を担当した。
鳥取城に対する兵糧攻めを行っていた秀吉は、鳥取城-雁金山城-丸山城のラインを遮断することが鳥取城の落城を早めることに気づき、宮部継潤に命じて雁金山城を攻撃させた。高清は継潤の手勢をよく防いだが、兵糧の欠乏による兵の消耗はいかんともし難く、雁金山城は織田方の手に落ち、高清は日本之介の守る丸山城に逃れた。
天正9年(1581年)10月、鳥取城中の飢餓地獄を見かねた経家は、自らの命と引き替えに城兵の命を救うことを条件として、秀吉に降伏を申し出る。これに対し秀吉は経家の武勇を惜しんで助命しようとする一方、高清および日本之介の海賊行為を責め、二人の切腹を主張して譲らなかった。結局、経家の自刃に先立つ天正9年10月24日、高清は日本之介とともに陣所で切腹して果てた。法名は節叟廣忠居士。丸山城の西麓に、塩冶高清、奈佐日本之介、佐々木三郎左衛門の3名の供養塔がある。
高清の子の塩冶安芸守やその弟の塩冶高久は、吉川氏の家臣となり防州岩国の地に移った。[4]
系譜
[編集]家族
[編集]- 長男:塩冶安芸守 父自害の後、防州岩国に供奉し、知行60石。のち断絶。
- 次男:塩冶右京亮[8] 山田利兵衛に討たれ死す。
- 三男:塩冶高久 父自害の後、防州岩国に供奉し、寛永10年4月2日死去。法名は秋月浄華居士。
補註
[編集]- ^ 1968年(昭和43年)刊行の『岩美町誌』によると、「実子」ではなく「養子」との説を採り、「因幡国巨濃郡姥ヶ谷城主の吉見範仲が但馬国美方郡に逃れ、芦屋城主となり"塩冶周防守"と名乗った」とする説が紹介されているが、これを証明する一次史料は存在していない。『浜坂町史』にもこの説の影響を受け「因幡国の吉見兵部が、塩冶左衛門尉綱高の養子となり"塩冶周防守高清"と名乗った」と記載されている。
- ^ 『群書類従(系図部)』に所収の『佐々木系図』によれば塩冶高貞の甥・塩冶通清の四男・塩冶周防守の子・某が但州塩冶の祖にあたる。
- ^ 当時の高信は豊国によって鵯尾城から追われていた。
- ^ 『岩国藩分限帖』、『御家中系図』
- ^ 周防守
- ^ 周防守
- ^ 若狭守、左衛門尉
- ^ 一説、左京亮とも。
外部リンク
[編集]- 「鳥取城包囲網と防衛ライン3城(鳥取、丸山、雁金の城)と56陣紹介」で天正9年、羽柴秀吉攻撃時の毛利方および織田方の陣城について、遺構をもとに紹介している。