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塩崎真

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
塩崎 真
オリックス・コーチ時代
(2015年5月1日 神戸第二サブ球場にて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県八代市
生年月日 (1973-06-29) 1973年6月29日(51歳)
身長
体重
178 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1996年 ドラフト3位
初出場 1997年4月9日
最終出場 2010年9月28日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • オリックス・バファローズ (2011 - 2016)

塩崎 真(しおざき まこと、1973年6月29日 - )は、熊本県八代市[1]出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)・コーチ

経歴

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プロ入り前

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小学4年の時に野球を始める[1]熊本工業高校では3年時に第63回選抜高等学校野球大会第73回全国高等学校野球選手権大会に春夏連続出場[1]。夏は1回戦で髙木大成副島孔太高橋由伸らを擁する桐蔭学園高校に敗れた(高校の2学年先輩に前田智徳、2学年後輩に高波文一がいた)。高校卒業後は東洋大学に進学し、1年春にメンバー入りしたが中退[1]。その後は地元に帰郷してアルバイト生活をしていたが、先輩に誘われ1993年社会人野球新日鐵広畑へ入社[1]都市対抗野球に2回出場し、うち1回は補強選手として本塁打も放つ[2]。同学年の薮田安彦三井浩二がチームメイトであった。1996年ドラフト会議でオリックス・ブルーウェーブから3位指名を受け入団[1]

プロ入り後

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選手時代。2008年7月2日(舞洲ベースボールスタジアム)。

1997年は新人ながら100試合出場を記録したが、プロ入り後3年間は打率2割近辺で、守備も内野全てを守れる一方で際立って上手いわけではなく、なかなかアピールできなかった。

2000年は9番遊撃手で開幕スタメン出場を果たし、レギュラーとなった。シーズン終盤には田口壮に代わって1番も任され、初めて打率.250を超えた。

2001年には横浜ベイスターズから進藤達哉が移籍してきたがレギュラーを譲らず、1年間遊撃手のレギュラーとして出場した。初の2桁盗塁に、高い得点圏打率を記録した。

2002年は極端な打撃不振に陥り、打率は2割を少し超える程度だった。高畠康真コーチの打撃指導などもあったものの、2003年になると後藤光尊の台頭や平野恵一の優先起用に加え、自らの故障などで出場機会が減少。

2004年バット投手方向に極端に傾ける打撃フォームに改造して簡単に三振せず出塁率が向上し、6月まで後藤が務めていた遊撃手のポジションを取り返した。前半戦は打率4割を維持し、後半戦になるとオリンピックや主力選手の故障などもあり村松有人と3番・4番を打ち、規定打席には届かなかったものの打率.341を記録。得点圏打率は4割を超えた。チーム事情で頻繁に守備位置が変わり遊撃手43試合、二塁手17試合、三塁手11試合、指名打者3試合でスタメン出場した。また、大阪近鉄バファローズとの合併によりオリックス・ブルーウェーブとして最後の一軍公式戦で4番に座り、「ブルーウェーブ最後の4番打者」を務めた。

2005年球団合併に伴う分配ドラフトにより引き続きオリックスと契約。旧近鉄バファローズより同じ内野手の阿部真宏が移籍してきたため、主に三塁手としてチーム最多の60試合、二塁手14試合、遊撃手23試合を守り、打率.315を記録した。

2006年は1番二塁手で開幕スタメン出場。主力選手に故障が相次ぎレギュラーが固定できない中でチーム最多の打席数を記録し、5年ぶりに規定打席に到達した。4番と9番以外すべての打順でスタメン出場し、パンチ力も発揮した。守備でも二塁手67試合、三塁手43試合、遊撃手38試合と3ポジションを守り、9月18日の対千葉ロッテマリーンズ戦で通算1000試合出場を達成した。同年オフにFA宣言したが他球団で獲得を希望するチームは無く残留。しかし、FA宣言前にオリックスが打診していた金額より低い年俸7000万円(推定)で契約となった。

2007年はコリンズ新監督が残留を想定していなかったこともあり、一時は同じくFA残留となった日高剛とともにチーム構想から外れ、グレッグ・ラロッカらに出場機会を奪われた。同年は、ほぼ三塁の守備固めとしての出場のみとなり、34試合出場、打率.141、1本塁打と自己最低の成績に終わった。

2008年は開幕直後は打率4割台を記録するなど好調だったが、すぐに調子を落とし前年同様三塁の守備固めに落ち着いた。しかし、シーズン通して一軍におり、遊撃手のレギュラーである大引啓次が故障で戦線離脱した際には穴を埋めた。オフの契約更改の席では、生え抜きのベテランと言う立場から「これでチームが強くなったと考えるのは危険、来年最下位になる可能性もあるので、自分勝手な行動が出たらすぐに言います。」と若手の指導役を買って出る旨の発言をした。

2009年も主に守備固め中心での起用だったが、主力が相次いで故障して戦線離脱した事に伴いスタメン出場機会が増加した。6月11日の対読売ジャイアンツ戦では2回裏にディッキー・ゴンザレスの開幕7連勝とチームの8連敗を阻止する決勝2ラン本塁打を放ち、3年ぶりにヒーローインタビューを受けた。その後は山﨑浩司の台頭もあって徐々に出場機会が減少し、8月14日に二軍に降格した後は一軍に再昇格することなくシーズンを終えた。

2010年開幕1軍入りを果たすが、結果を残せず7月に2軍降格。同月、岡田彰布に来期のコーチ就任を打診され、これを受諾することを決意[3]。9月に現役引退することを表明した[4]。引退試合となる9月28日の日本ハム戦で再昇格。8回裏に代打出場しダルビッシュ有から右前安打を放ち有終の美を飾った。10月12日に任意引退選手公示。

現役引退後

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2011年からはオリックスの二軍守備走塁コーチを務め[1]2016年10月27日付で契約の更新が行われない旨が発表[5]され、翌2017年1月1日付で球団職員として事業本部リテール営業部コミュニティグループに配属した。[6]2019年からはJ SPORTSの野球解説者としても活動する。

選手としての特徴

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遊撃を中心に内野全ポジションを堅実に守るユーティリティープレイヤー[7]。打撃はしぶとく[8]、勝負強さが持ち味であった[9]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1997 オリックス 104 215 181 25 44 10 0 0 54 6 5 1 19 1 10 0 4 28 2 .243 .296 .298 .594
1998 60 134 119 14 28 5 2 1 40 9 0 1 9 0 6 0 0 29 2 .235 .272 .336 .608
1999 104 277 221 22 55 8 2 0 67 24 8 2 20 2 33 0 1 49 4 .249 .346 .303 .649
2000 130 462 393 45 103 17 6 1 135 35 5 7 20 4 41 0 4 69 7 .262 .335 .344 .678
2001 132 518 439 58 115 17 3 4 150 45 10 3 18 3 54 0 4 91 8 .262 .346 .342 .688
2002 113 425 389 26 79 13 0 2 98 20 3 5 21 2 10 0 3 81 8 .203 .228 .252 .480
2003 56 155 129 13 29 9 0 1 41 8 2 0 13 1 12 0 0 31 3 .225 .289 .318 .607
2004 82 337 290 44 99 13 3 8 142 39 13 3 15 2 29 2 1 38 6 .341 .401 .490 .890
2005 96 286 254 27 80 13 0 4 105 25 0 1 10 2 17 1 3 40 0 .315 .362 .413 .776
2006 128 473 410 46 114 14 2 9 159 31 1 2 20 0 38 2 5 64 8 .278 .347 .388 .734
2007 34 68 64 4 9 1 0 1 13 5 0 0 2 1 1 0 0 10 2 .141 .152 .203 .355
2008 92 186 153 18 34 6 1 1 45 6 0 0 11 1 17 0 4 31 0 .222 .314 .294 .608
2009 66 106 94 11 22 5 0 2 33 7 0 1 3 1 8 0 0 29 4 .234 .291 .351 .642
2010 35 56 48 5 9 0 0 1 12 1 0 0 2 0 5 0 1 13 2 .188 .278 .250 .528
通算:14年 1232 3698 3184 358 820 131 19 35 1094 261 47 26 183 20 281 5 30 603 56 .258 .322 .344 .666

年度別守備成績

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一塁 二塁 三塁 遊撃
















































1997 オリックス - - 9 11 15 2 2 .929 97 84 194 15 42 .949
1998 - 13 22 19 0 7 1.000 1 0 0 2 0 .000 45 40 88 3 16 .977
1999 - 6 10 12 0 5 1.000 42 17 56 0 5 1.000 77 56 168 6 34 .974
2000 - - - 127 168 323 12 62 .976
2001 - - - 131 166 335 12 78 .977
2002 - 1 2 2 0 0 1.000 - 110 134 271 9 31 .978
2003 - 7 8 12 0 4 1.000 7 4 6 0 0 1.000 39 33 75 5 10 .956
2004 - 24 42 47 1 16 .989 19 9 16 1 3 .962 50 70 107 3 24 .983
2005 - 14 28 22 1 5 .980 60 25 79 4 3 .963 23 16 37 2 9 .964
2006 - 67 134 178 2 37 .994 43 15 61 2 4 .974 38 47 109 3 21 .981
2007 - 8 9 18 0 1 1.000 23 4 20 1 1 .960 -
2008 6 8 0 0 0 1.000 7 16 12 0 3 1.000 67 19 55 3 5 .961 15 13 36 1 9 .980
2009 9 10 1 0 2 1.000 9 17 32 1 9 .980 36 7 15 0 1 1.000 16 13 35 0 8 1.000
2010 10 17 2 0 2 1.000 1 0 0 0 0 .000 13 4 15 0 0 1.000 9 2 2 0 0 1.000
通算:14年 25 35 3 0 4 1.000 157 288 354 5 87 .992 320 115 338 16 24 .966 777 842 1780 71 344 .974

記録

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初記録
節目の記録

背番号

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  • 31 (1997年 - 2010年)
  • 86 (2011年 - 2016年)

関連情報

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出演

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映画

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脚注

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  1. ^ a b c d e f プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、262ページ
  2. ^ 都市対抗野球大会80年史 毎日新聞社刊
  3. ^ “師”に誘われた指導者の道(オリックス・塩崎真内野手 37歳)
  4. ^ 塩崎真選手、引退のお知らせ、オリックス・バファローズ、2010年09月25日。
  5. ^ コーチ人事のお知らせ 2016年10月27日、球団公式サイト
  6. ^ オリックス塩崎2軍守備走塁コーチが事業本部に入社
  7. ^ 「1973年」左の好打者が一堂に会する“イチロー世代”/世代別ベストナイン | 野球情報”. 週刊ベースボールONLINE. 2021年3月22日閲覧。
  8. ^ K!SPO | 南 郁夫の野球観察日記 | オリックス 背番号の変遷「30」~「39」”. kobe-kspo.com. 2021年3月22日閲覧。
  9. ^ 塩崎が今季限りで引退 オリックス一筋14年”. 日本経済新聞 (2010年9月25日). 2023年7月21日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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