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塩谷惟守

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
塩谷惟守
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 不詳
死没 建保元年(1213年[1]
別名 塩谷三郎
官位 従五位下三河守
氏族 塩谷氏
父母 父:塩谷惟広 
兄弟 惟守横田頼業室、某(次男)、惟義
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塩谷 惟守(しおのや これもり)は、鎌倉初期の下野国塩谷郡武将

事績

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塩谷惟広の嫡男として生まれる。本家である塩谷氏藤原系朝業によって継承され、源姓塩谷氏の血筋は惟広やその子惟守によって守られてきたが、建保元年(1213年)の和田合戦において和田義盛に組して討死する[2]。この戦い以降、源姓塩谷氏の勢力は鎌倉での地位を失い、急速に衰退していく。

脚注

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  1. ^ 命日については、喜連川塩谷系譜が6月5日とする一方、吾妻鏡は5月2日とする。
  2. ^ 吾妻鏡による。但し、吾妻鏡に登場する「塩谷三郎惟守」は、武蔵国児玉党塩谷氏塩谷三郎維盛とする説もある。

参考資料

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  • 『喜連川町史』