塩谷惟義
表示
時代 | 鎌倉時代 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 弥次郎 |
官位 | 従五位下兵衛尉 |
氏族 | 塩谷氏 |
父母 | 父:塩谷惟広 |
兄弟 | 惟守、横田頼業室、某(次男)、惟義 |
子 | 惟縄 |
塩谷 惟義(しおのや これよし、生没年不詳)は、鎌倉時代の下野国塩谷郡の武将。
沿革
[編集]喜連川塩谷氏三代目当主。初代塩谷惟広の三男として生まれる。建保元年(1213年)、兄惟守が和田合戦において討死すると、嗣子の無かった兄の跡を継いで喜連川塩谷氏の当主となる。伝わる事績はほとんど少ないが、兄惟守が和田義盛に呼応して謀反したため、喜連川塩谷氏は鎌倉での地位を失い、惟義の時代の喜連川塩谷氏は、衰退していったものと考えられている。但し、吾妻鏡によれば建長2年(1250年)3月1日には、閑院内裏造営の造営役を命じられており、謀反後も、それなりの地位を維持してはいたと考えられている。また、この時、惟義の名は「塩屋(塩谷)兵衛入道」となっており、出家している事から、この時には子の惟縄に家督を譲っていたものと考えられている。
惟義の没年は不明である。
系譜
[編集]参考資料
[編集]- 『喜連川町史』