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塩谷惟義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
塩谷惟義
時代 鎌倉時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 弥次郎
官位 従五位下兵衛尉
氏族 塩谷氏
父母 父:塩谷惟広
兄弟 惟守横田頼業室、某(次男)、惟義
惟縄
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塩谷 惟義(しおのや これよし、生没年不詳)は、鎌倉時代下野国塩谷郡武将

沿革

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喜連川塩谷氏三代目当主。初代塩谷惟広の三男として生まれる。建保元年(1213年)、兄惟守和田合戦において討死すると、嗣子の無かった兄の跡を継いで喜連川塩谷氏の当主となる。伝わる事績はほとんど少ないが、兄惟守が和田義盛に呼応して謀反したため、喜連川塩谷氏は鎌倉での地位を失い、惟義の時代の喜連川塩谷氏は、衰退していったものと考えられている。但し、吾妻鏡によれば建長2年(1250年)3月1日には、閑院内裏造営の造営役を命じられており、謀反後も、それなりの地位を維持してはいたと考えられている。また、この時、惟義の名は「塩屋(塩谷)兵衛入道」となっており、出家している事から、この時には子の惟縄に家督を譲っていたものと考えられている。

惟義の没年は不明である。

系譜

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参考資料

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  • 『喜連川町史』