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外山光時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
外山 光時
時代 江戸時代中期
生誕 元文2年(1737年5月22日
死没 不明
別名 有楽軒了円
官位 従四位上式部少輔
氏族 藤原北家日野家庶流外山家
父母 父:竹屋光兼、義父:外山光任
女子、女子、松子(松浦清室)
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外山 光時(とやま みつとき)は、江戸時代中期の公卿竹屋光兼の子。官位従四位上式部少輔

概要

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竹屋光兼の次男として元文2年(1737年5月22日に生まれた。寛延2年(1749年)7月8日に外山光任の養子となった。翌月10日には従五位下に叙され、明和3年(1766年)には従四位上・式部少輔に叙任された。しかし、同年7月10日に辞官・位記返上をする旨の書き置きを残して突如出奔したと光時の実兄・竹屋光予が報告した。同族の広橋兼胤が行き先について尋ねたものの、光予も見当がつかず、同じく同族の日野資枝にも尋ねたところ、光時には4歳の娘がおり、日頃から虐待していたことが光時邸に隣接していた円照寺文享女王が父・有栖川宮職仁親王に報告されて、宮はこれを哀れみ、光時の娘を奪い取らせ、日野家で養育するように要請してきたという。

光時の行方は3日後に知恩院の門前にいることがわかり、光予が家に帰るように説得したものの、再び朝廷に仕える意志はないと一蹴されてしまった。その上、外山家の財産を全て売り払ってしまっていたという。家財を損失させたことは明らかな罪であり、日野家の一族(日野家広橋家柳原家烏丸家竹屋家日野西家勘解由小路家裏松家外山家豊岡家三室戸家北小路家)が協議し、光時が仕えていた近衛内前に報告したところ、官位を返上させるように厳命があった。そのため、烏丸光祖が天皇に奏上し、聞き届けられ、豊岡尚資がこのことを外山家に報告した。光時の養父・外山光任と光予は光時を義絶した[1]

その後の光時は娘が平戸藩松浦清に嫁いでいたことから平戸に移り、武士と同様に月代を剃っていたという。そして、後に有楽軒了円を称して、娘の子が次の当主・松浦武を産んだことから、外祖父として優遇されていたとされる[2]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 松田敬之『次男坊たちの江戸時代 公家社会の〈厄介者〉 』(吉川弘文館、2008年)
  2. ^ 松田敬之『次男坊たちの江戸時代 公家社会の〈厄介者〉 』(吉川弘文館、2008年)