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多治比真浄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

多治比 真浄(たじひ の まきよ、生没年不詳)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族氏姓は丹比宿禰のち多治比宿禰。鋳銭次官・丹比真継の子。官位従五位下讃岐介

出自

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丹比氏(丹比宿禰)は、尾張氏の同系氏族とされる地祇氏族名代部の一つ丹比部の中央伴造氏族であったが、宮城十二門の一つ多治比門の門号氏族として、軍事的な役も担っていた。はもとであったが、天武天皇13年(684年八色の姓の制定の際に宿禰姓に改姓したと想定される[1]

経歴

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従五位下に叙せられた後、光仁朝宝亀8年(777年山背介に任ぜられる。

桓武朝に入ると、延暦3年(784年)6月に長岡宮の造営を行うために中納言藤原種継らとともに造長岡宮使に任ぜられ、同年12月に造宮使らに対する叙位が行われ、真浄は二階昇進して外正五位下に昇叙される。延暦4年(785年右衛士佐を経て、延暦5年(786年内位の従五位下に叙せられるが、延暦6年(787年丹波介として地方官に転じた。のち、延暦8年(789年皇太后高野新笠、延暦9年(790年皇后藤原乙牟漏葬儀では、いずれも作路司を務めている。

その後、丹比宿禰姓から多治比宿禰姓に改姓し、延暦15年(796年)10月に肥後介、同年12月に内匠頭、翌延暦16年(797年)2月には讃岐介と、短期間に複数の官職に補任されている。

官歴

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六国史』による。

脚注

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  1. ^ 佐伯[1994: 297]

参考文献

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