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大イン譔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大諲譔
渤海
第15代王
王朝 渤海
在位期間 907年 - 926年
生年 不詳
没年 不詳
大瑋瑎
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大 諲譔(だい いんせん)は、渤海の第15代(最後の)王。

生涯

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文献の記録は乏しいが、朱晃後梁を建国した後の開平元年(907年)に王子の大昭順を遣わして入朝し、在位中に合計6回の使節派遣をしたことが記録に残っている。

渤海西部では契丹の勢力が拡大し、渤海は西部の扶余府に軍隊を駐留させるなどの対応に追われた。しかし軍事力で対抗できないことを理解した渤海は貞明4年(918年)に後梁に進貢したが、それでも契丹の進出に対抗することができなかった。契丹に対抗すべく周辺諸国の支援を求めたが、中国は当時五代十国時代の争乱で渤海を支援する余力はなく、やむを得ず新羅や新興の高麗日本などと協力する方針を打ち出した。しかし新羅が契丹に通じたことで渤海は窮地に立たされ、同光4年(926年)に遂に上京龍泉府が陥落し、大諲譔が投降した事で渤海は滅亡した。

契丹の皇帝耶律阿保機は長男の突欲を王に封じて東丹国を作り、渤海の故地を支配させた。降伏した大諲譔は契丹の都上京臨潢府に連行されて幽閉された。

遼史』巻二太祖紀下、天顕元年に「秋七月丙辰、鐵州刺史衛鈞反す。乙丑、堯骨攻めて鐵州を抜く。庚午、東丹国左大相迭剌卒す。辛未、衛 大諲譔を皇都の西に送り、城を築きて以て之を居らしむ。諲譔に名を賜い烏魯古と曰い、妻を曰阿里只と曰う。」とあり、契丹から大諲譔は「烏魯古」の名を、妻は「阿里只」の名を賜っている[1]。「烏魯古」「阿里只」の名はもともと遼太祖述律皇后が騎乗していた二匹のの名で、本義は必ずや悪いものではないが、降伏した国王と王后に賜ったのだから、美意ではない[1]

子孫

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1991年遼寧省北鎮市で『大契丹国故廣陵郡王墓誌銘』(『耶律宗教墓誌』)が出土した。墓主はが朝隠、名は驢糞または旅墳、漢名宗教中国語版遼景宗仲子である耶律隆慶中国語版庶出の長子である[1]。『大契丹国故廣陵郡王墓誌銘』には、以下の記事がある。

漢文墓誌 : 母曰蕭氏、故渤海聖王孫女、遅女娘子也。


契丹小字墓誌 : məgə mirgi ʧinio au'ui dan gur-n ju qan urgu-n uran pon.


意訳 : 母 迷里吉 遅女 娘子 丹 国の 聖 汗 烏魯古の 後裔。 — 大契丹国故廣陵郡王墓誌銘

「məgə」=「母」、「mirgi」=「迷里吉」(迷里吉は契丹の姓氏)、「ʧinio」=「遅女」(遅女は耶律宗教中国語版の母蕭氏の名)、「dan ~ tan」=「丹」あるいは「檀」(漢語の「丹」あるいは「檀」に対訳しうる)、「gur-n」=「国」(「-n」は所有格接尾辞を附す)、「au'ui」=「娘子」、「ju」=「尊」(ここでは「聖」に対訳する)、「qan」=「汗」(遼帝宋帝いずれもこの称を用いる)、「urgu-n」=「烏魯古」(「-n」は所有格接尾辞を附す。聖汗の名である)、「uran pon」=「後裔」[1]。「urgu」は契丹の男子が使用する名であり、「烏魯古」あるいは「烏魯姑」と音訳し、契丹文墓誌にしばしばこの名がみえる。漢文墓誌の「聖王」は、渤海国王の専称であり、漢文墓誌の「故渤海聖王」と契丹小字墓誌の「dan gur-n ju qan(丹国の聖汗)」は大諲譔を指す(dan gur-n ju qan(丹国の聖汗)「烏魯古」=渤海聖王「大諲譔」)。このことから、耶律宗教中国語版の母である遅女娘子は大諲譔の外孫であることがわかる[1]

脚注

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先代
大瑋瑎
渤海の第15代王
907年 - 926年
次代
大光顕