コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

大久保傳藏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大久保伝蔵から転送)
大久保 傳藏
おおくぼ でんぞう
生年月日 (1901-12-04) 1901年12月4日
出生地 山形県山形市
没年月日 (1986-09-11) 1986年9月11日(84歳没)
出身校 中央大学法学部
前職 恩賜財団戦災援護会啓発課長
所属政党 日本進歩党
称号 山形市名誉市民、紺綬褒章、勲四等旭日小綬章
子女 大久保義彦

山形市長
当選回数 3回
在任期間 1954年 - 1966年

衆議院議員
選挙区 山形県
当選回数 1回
在任期間 1946年 - 1947年
テンプレートを表示

大久保 傳藏(おおくぼ でんぞう、1901年12月4日[1] - 1986年9月11日[2])は、日本の政治家衆議院議員(1期)。山形市長(3期)。山形市名誉市民[3]勲四等旭日小綬章紺綬褒章を受章[4]

経歴・人物

[編集]

山形県山形市出身[2][4]1928年中央大学法学部[1][2]東洋モスリンに入り[1][2]東洋紡績労務課長を経て[1][2]1942年第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では山形1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに立候補したため落選した[5]。その後、恩賜財団戦災援護会啓発課長となる[1][2]

1946年第22回衆議院議員総選挙において山形県から日本進歩党公認で立候補して当選する。進歩党内では遊説部長となったが[1][2]、翌年、公職追放となった[6]1952年追放解除。1954年に山形市長に就任する。

山形市は昭和の大合併による周辺の村を編入し、市域を拡大した。就任の翌1955年には、市役所に企画課と農村課を設置[1]、「山形市総合企画審議条例」を議会に提出、可決され[1]、条例に基づく「山形市総合企画審議会」が発足した[1]1958年には同審議会から「山形市総合計画書」が市長に提出され、これに基づく「近代田園都市建設」を市長として3期12年で取り組むこととなった[1]

1966年に山形市長を辞任し、自由民主党山形県連の支援を受けて翌年の山形県知事選に出馬するが、現職の安孫子藤吉知事に敗れる[4]。退任後は、斎藤茂吉記念館の設立などに尽力した。

1986年死去。84歳没。

子息に山形放送勤務などを経て、山形国際ドキュメンタリー映画祭理事長を務めた大久保義彦がいる(2019年12月死去)[7]

著書

[編集]
  • 『西ドイツの農業をみて 日本農業をどうしたらよいか』山形県農業会議、1960年。
  • 『私の外遊記』山形荷札、1960年。
  • 『忘れてならぬ歴史の一頁―徳をもって怨に酬ゆる』時事通信社、1970年。
  • 『歴史の証言―日華関係ー恩を仇で返してよいのか』サンケイ新聞社出版局、1974年。
  • 『歴史は教える 秘録・中華民国と日本』早稲田出版、1981年。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j 『日本の歴代市長』第1巻 378頁。
  2. ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』125頁。
  3. ^ 名誉市民一覧” (PDF). 山形市. 2022年7月29日閲覧。
  4. ^ a b c “大久保 伝蔵”. コトバンク『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』. https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%20%E4%BC%9D%E8%94%B5-1675389 2019年8月27日閲覧。 
  5. ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』124頁。
  6. ^ 『朝日新聞』1947年4月5日一面。
  7. ^ 『山形新聞』2019年12月7日

参考文献

[編集]
  • 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
  • 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、1983年。
  • 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
公職
先代
鈴木重屹
山形市長
公選第2代:1954年 - 1966年
次代
金澤忠雄