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大伴伯麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大伴 伯麻呂
時代 奈良時代
生誕 養老2年(718年
死没 天応2年2月3日782年3月21日
官位 従三位参議
主君 孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇光仁天皇桓武天皇
氏族 大伴氏
父母 父:大伴道足
兄弟 伯麻呂藤原鳥養
伴弥嗣
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大伴 伯麻呂(おおとも の おじまろ/はかまろ)は、奈良時代公卿参議大伴道足の子。官位従三位参議

経歴

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孝謙朝天平勝宝2年(750年従五位下叙爵。天平勝宝4年(752年東大寺大仏開眼供養会久米舞の舞頭を務め[1]、同年上野守に任ぜられる。天平勝宝8歳(756年聖武上皇崩御に際して山作司を務めた。しかし、藤原仲麻呂政権下では最末年の天平宝字8年(764年)正月に伊豆守に任ぜられた程度で官職に就いた記録に乏しい。

同年発生した藤原仲麻呂の乱終結後まもない10月に左衛士佐に任ぜられると、翌天平神護元年(765年)正月に従五位上・右少弁、天平神護2年(766年道鏡法王に任ぜられてまもない11月に正五位下、さらに同年12月には称徳天皇の西大寺行幸に際し正五位上に叙任されるなど、称徳朝では一転して順調に昇進する。神護景雲3年(769年従四位下員外左中弁に叙任される。また、同年12月には新羅使に対して来朝理由を問うために大宰府に派遣されている[2]

宝亀元年(770年光仁天皇の即位後右中弁に任ぜられ、翌宝亀2年(771年他戸親王立太子に際してその春宮亮を兼ねる。光仁天皇の寵遇を受け、宝亀2年(771年)従四位上、宝亀6年(775年正四位下と順調に昇進する傍ら宮内卿を務め、宝亀9年(778年)には参議に任ぜられ公卿に列した。宝亀10年(779年)左大弁を兼ねる。また、宝亀11年(780年)には新羅使に対して天皇を伝える役を務めた[3]

天応元年(781年桓武天皇の即位ののち正四位上に叙せられ、衛門督中宮大夫を兼任する。また、同年12月に光仁上皇が崩御すると御装束司を務めた。

天応2年(782年)正月に従三位に昇叙されるが、同年2月3日薨去。享年65。最終官位は参議従三位中宮大夫兼衛門督。一説では同年正月に発生した氷上川継の乱に連座して解官されたともいう[4]

人物

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非常に心構えがしっかりしていた。酒宴においてよく飲み談話したという[5]

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『日本人名大辞典』
  2. ^ 『続日本紀』神護景雲3年12月19日
  3. ^ 『続日本紀』宝亀11年正月5日条
  4. ^ a b c d 『公卿補任』
  5. ^ a b 続日本紀』天応2年2月3日条
  6. ^ 『日本後紀』弘仁14年7月22日条

参考文献

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