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伴国道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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伴国道
時代 平安時代初期
生誕 神護景雲2年(768年
死没 天長5年11月12日828年12月22日
官位 従四位上[1]参議
主君 桓武天皇平城天皇嵯峨天皇淳和天皇
氏族 大伴宿禰→伴宿禰
父母 父:大伴継人、母:不詳
兄弟 国道
不詳
高道、経道、安道、国清、遍昭妻、善男、国恒、河男
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伴 国道(とも の くにみち、神護景雲2年〈768年〉 - 天長5年〈828年〉)は、平安時代初期の公卿左少弁大伴継人の子。官位従四位上参議勲等は勲六等[2]。 比叡山延暦寺や高野山金剛峰寺を建立。

経歴

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延暦4年(785年)父・継人が藤原種継暗殺事件に関与し処刑されたため、国道も連座して佐渡国への流罪となる。佐渡では国道が聡明で優れた人物であるとして、国守は彼を優遇して師友と仰ぎ、問題が発生した際には対処を決定させ、公文書も作成させるなど、行政を補佐させたという。桓武朝末の延暦22年(803年恩赦により平安京に戻る[3]

嵯峨朝初頭の弘仁2年(811年陸奥少掾に任ぜられる。同年に行われた征夷将軍文室綿麻呂による幣伊爾薩体を対象とした蝦夷征討に参画したか。陸奥権介を経て、弘仁4年(813年従五位下叙爵する。その後は宮内少輔民部少輔伊予介などを歴任し、内官(在朝官人)と外官(地方官)の両方で優れた業績を残した[3]。またこの間の、弘仁10年(819年)に従五位上に昇叙されている。

嵯峨朝末の弘仁13年(822年正五位下・右中弁に抜擢されると、翌弘仁14年(823年)4月に淳和天皇即位に伴って従四位下・左中弁と弁官を務めながら急速に昇進し、同年5月には参議兼右大弁に任官して公卿に列した。また、淳和天皇の即位に際して、天皇の(大伴)を避けるために大伴宿禰姓から伴宿禰姓へ改姓している。

天長2年(825年)従四位上に昇叙されると共に、按察使武蔵守を兼帯して東国の地方統治に携わった。天長5年(828年陸奥按察使を兼ねて陸奥国に赴任するが、同年11月12日に赴任先で卒去享年61。最終官位は参議従四位上。

官歴

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注記のないものは『六国史』による。

系譜

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  • 父:大伴継人[3]
  • 母:不詳
  • 生母不明の子女
    • 男子:伴高道
    • 男子:伴経道
    • 男子:伴安道
    • 男子:伴国清
    • 女子:遍昭
    • 五男:伴善男[3](811-868)
    • 男子:伴国恒
    • 男子:伴河男[3]

脚注

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  1. ^ 日本紀略』天長5年11月12日条の死亡記事では従四位下とするが、『日本後紀』天長2年正月4日条に従四位上への叙位記事がある。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『公卿補任』
  3. ^ a b c d e 日本三代実録』貞観8年9月22日条
  4. ^ 『高野雑筆集』

参考文献

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  • 森田悌『日本後紀 全現代語訳』下巻、講談社講談社学術文庫〉、2007年。
  • 森田悌『続日本後紀 全現代語訳』上巻、講談社〈講談社学術文庫〉、2010年。
  • 武田祐吉佐藤謙三 訳『読み下し 日本三代実録』上巻、戎光祥出版、2009年。
  • 黒板勝美・国史大系編修会 編『公卿補任 第一篇』吉川弘文館新訂増補国史大系〉、1982年。
  • 宝賀寿男 編著『古代氏族系譜集成』上中下、古代氏族研究会、1986年。国立国会図書館書誌ID:000001831027