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大伴榎本大国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大伴榎本大国
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 不明
主君 大海人皇子
氏族 大伴榎本
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大伴榎本 大国(おおとものえのもと の おおくに[1])は、飛鳥時代の人物。壬申の乱の功臣。

経歴

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大伴榎本氏(のち榎本氏)は大伴氏の同族で[2]大伴狭手彦の後裔と想定される[3]

壬申の乱が勃発した際、吉野宮にいた大海人皇子(のちの天武天皇)は兵力を持たず、使者を出して美濃国で兵を集めさせつつそちらに向かった。始め、6月24日の出発時、従う男子は20数人にすぎず、菟田(大和国宇陀郡)で大伴馬来田土師馬手の合流を得ても、30人前後だったと推測される。同日中に甘羅村を過ぎたところで、一行は大伴榎本大国に率いられた猟師20数人と出会った。大国らはすぐに一行に加わった。猟師は武器を携え使い慣れているので、このときの一行にとって心強い味方だったと想像できる。結局この脱出行で戦闘はおきず、その後の大国の活動について記録はない。

学説

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民俗学者の柳田國男は、大国が率いた猟師は吉野国栖(吉野の山の住民)ではないかという説を唱えた。後世、大友皇子に追われて一人山中に逃れた天武天皇が、国栖の翁なる人に会って祝福されたという伝説が作られたが、これもそれに関係したものかという[4]

脚注

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  1. ^ 旧仮名遣いでの読みは「おほとものえのもとのおほくに」
  2. ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店1963年
  3. ^ 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年
  4. ^ 山本幸司『天武の時代 壬申の乱をめぐる歴史と神話』(朝日新聞社・朝日選書、1995年)97-103頁。。