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大倉和親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大倉和親

大倉 和親(おおくら かずちか、1875年明治8年)12月11日 - 1955年昭和30年)7月1日)は、明治期の実業家。日本陶器(現・ノリタケ)初代社長[1]。東洋陶器(現・TOTO)社長、日本碍子社長、伊奈製陶(後のINAX、現・LIXIL)社長、大倉陶園主のほか、森村組取締役などを務めた[2]

経歴

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大倉孫兵衛の長男として東京日本橋に生まれ、1921年に家督を相続する[2][3]慶應義塾幼稚舎から進んで、1894年(明治27年)慶應義塾正則本科を卒業し、森村組入社[4][3]。明治28年渡米しイーストマン商業学校で学んだ後、森村組ニューヨーク店森村ブラザースに入る[5][4]。欧米滞在9年を経て帰国し、明治37年日本陶器合名会社設立し、代表社員に就任[5][4][6][3]。日本陶器株式会社に移行した大正6年、同社社長に就任したほか[7]、同年に東洋陶器、日本碍子各初代社長となった[4][8][9]。大正13年に伊奈製陶を設立し、昭和11年には日本特殊陶業の設立に参画したほか、森村組、森村商事(旧)、日本玩具などの取締役を務めた[4]

1955年(昭和30年)7月1日に79歳で死去した。

親族

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  • 父・大倉孫兵衛
  • 母・なつ(1847年生)- 千葉県・鈴木与四郞の長女。[2]
  • 妻・しげ(1883年生)- 明治製糖会長の小川䤡吉の二女。[2][10]
  • 子に長女美代(1907年生)、二女治代(1908年生)、三女鶴江(1909年生)、四女松代(1909年生、小原謙太郎妻)、長男幸和(1910年生)、五女亀久代(1914年生、吉村成一妻)、次男譲次(1918年生)。[5][11][12]

脚注

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  1. ^ 第2章 日本陶器の創立とディナーセットの完成 近代陶磁器産業の出発と「一業一社」 1. 日本陶器合名会社の創立 大倉和親が代表社員に(株)ノリタケカンパニーリミテド『Noritake 100 : 1904-2004』(2004.10)
  2. ^ a b c d 大倉和親『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  3. ^ a b c 日本陶器会社長 大倉和親『名古屋百人物評論. 続』手島益雄 著 (日本電報通信社名古屋支局, 1915)
  4. ^ a b c d e 大倉 和親(読み)オオクラ カズチカ20世紀日本人名事典
  5. ^ a b c 大倉和親『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  6. ^ 明治37年日本陶器(株)『日本陶器七十年史』(1974.12)
  7. ^ 大正6年日本陶器(株)『日本陶器七十年史』(1974.12)
  8. ^ 東陶機器(株)『東陶機器七十年史』(1988.05)
  9. ^ 日本碍子(株)『日本碍子株式会社三十年史』(1949.05)
  10. ^ 小川 䤡吉(読み)オガワ ゼンキチコトバンク
  11. ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻、401-402頁
  12. ^ 大倉和親『人事興信録』第13版(昭和16年) 上

参考文献

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関連項目

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先代
(新設)
日本陶器社長
初代:1909年 - 1922年
次代
広瀬実光
先代
(新設)
日本碍子社長
初代:1919年 - 1939年
次代
江副孫右衛門
先代
(新設)
東洋陶器社長
初代:1919年 - 1939年
次代
百木三郎
先代
(新設)
日本碍子会長
初代:1939年 - 1944年
次代
鈴木俊雄
先代
(新設)
東洋陶器会長
初代:1939年 - 1947年
次代
森村茂樹