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大内地山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
おおうち ちざん

大内 地山
生誕 勘五郎(幼名)
(1880-02-02) 1880年2月2日
茨城県那珂郡前浜村前浜
死没 (1948-02-07) 1948年2月7日(68歳没)
茨城県那珂郡那珂湊町阿字ヶ浦
国籍 日本の旗 日本
職業 郷土史家
水戸学者
記者
代表作 本文参照
配偶者 高梨とく子
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大内 地山(おおうち ちざん、1880年明治13年)2月2日 - 1948年昭和23年)2月7日)は、大正から昭和時代前期にかけて活動した水戸学者郷土史家、『常総新聞記者幼名は勘五郎で[1]1889年(明治22年)に本名を逸朗(いちら)に改めた[2]

経歴

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茨城県那珂郡前浜村前浜(現・ひたちなか市阿字ケ浦町)に、父・平三郎と母・ふくの第5子として生まれる。1894年(明治27年)に那珂郡立第二高等小学校(現・ひたちなか市立那珂湊第一小学校)の第1回卒業生となり、栗田寛の私塾・輔仁学舎(家塾輔仁学舎(かじゅくほじんがくしゃ)とも言う)に入門した[3]。その後、1898年(明治31年)9月に上京し東京法学院に入学、1901年(明治34年)7月に卒業した[4]1902年(明治35年)に茨城日報社に入社、「地山」と号する。茨城日報社を3年有余勤めた後に辞し、一時大阪に赴き、『関西法律新聞』を発行したが1年足らずして廃刊し、再び水戸に帰り、新たに常総新聞社に入社し、その主筆となった[2]1915年(大正4年)に高梨とく子(徳子)と結婚し[5][6]、翌1916年(大正5年)2月に満州に渡り、福昌公司に入社するが、1924年(大正13年)2月に福昌公司を辞し、帰国した[6]。その理由は詳らかでないが、健康を害したことと、満州における成果が芳しくなかったからではないかと推察される[7]。その後は茨城県の歴史や水戸学に関する著作を執筆し、1948年(昭和23年)2月7日、阿字ヶ浦にて逝去した[6]

主な著作

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  • 福昌公司調査部編『満蒙通覧 上編・中編・下編』1918年(大正7年)12月5日[8]
  • 『水戸学要義』1935年(昭和10年)6月15日[8]
  • 『弘道館記釈義』1935年(昭和10年)6月15日[8]
  • 『常総古今の学と術と人』1935年(昭和10年)[8]
  • 『平磯町郷土史』1936年(昭和11年)8月5日[8]
  • 『武田耕雲斎詳伝 上・下』1936年(昭和11年)9月17日[8]
  • 『国体の本義解釈』1937年(昭和12年)[8]
  • 『水戸学早わかり』1938年(昭和13年)[8] 昭和52年9月発刊の同書(復刻版)には、「解説 大内地山の水戸学研究」(薄井己亥執筆、全32ページ)が加えられている。
  • 『人間義公』1938年(昭和13年)12月24日[8]
  • 『水戸学読本』1939年(昭和14年)
  • 『茨城県水産誌 第1~5編』1943年(昭和18年)[8]
  • 『前渡郷土誌(勝田市史料 4)』, 1978年(昭和53年) - 原稿のまま、勝田市役所所蔵であったものを出版したもの[8]
  • 『手向草』 - 妻・とく子の死を哀惜して供養の手向に綴った小冊で[9]、薄井己亥による「古今の漢文学に比して、遜色なき上級のもの」との賛辞が添えられている[10]

家族

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兄 小池吉兵衛。干し芋の神様として知られる。阿字ヶ浦の堀出神社に銅像がある。子供時に自分の不注意で弟、大内地山に怪我をさせてしまったことを一生悔やんでいた。

脚注

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  1. ^ 蔵野 1976, p. 11.
  2. ^ a b 蔵野 1976, p. 27.
  3. ^ 蔵野 1976, p. 12.
  4. ^ 蔵野 1976, p. 120.
  5. ^ a b 蔵野 1976, p. 103.
  6. ^ a b c d 蔵野 1976, p. 121.
  7. ^ 蔵野 1976, p. 49.
  8. ^ a b c d e f g h i j k 蔵野 1976, p. 64.
  9. ^ 蔵野 1976, pp. 86–104.
  10. ^ 蔵野 1976, p. 88.
  11. ^ 蔵野 1976, p. 86.

参考文献

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  • 蔵野, 覚蔵『大内地山略伝』大内地山先生頌功会、1976年5月5日。