コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

大内持盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大内持盛
時代 室町時代中期
生誕 応永4年(1397年
死没 永享5年4月8日1433年4月27日
別名 孫太郎[1][2]、新介[1][2]
戒名 観音寺芳林道継[1]または勝音寺殿芳林道継[2]
官位 正六位上[2]、散位[2]
幕府 室町幕府 周防国・長門国守護
氏族 多々良姓大内氏
父母 父:大内義弘[3]
兄弟 持世[3]持盛大内教祐[2]、女子(保寿寺瑞山)[2]、女子(北禅寺晦室)[2]、女子(智海妙弘)[2]
教幸教弘
特記
事項
父は大内弘世とする説もある[1]
テンプレートを表示

大内 持盛(おおうち もちもり)は、周防国[2]長門国守護職[2]安芸国東西条、石見国迩摩郡の領主[2]

生涯

[編集]

父は応永の乱を起こしたことで有名な、大内氏の第10代当主・大内義弘[3]、同第12代当主・大内持世の弟[3][注釈 1]。持世の父を祖父の弘世とする説では、持世の兄で義弘の養子になったとしている[1]元服時に4代将軍足利義持より偏諱の授与を受けて持盛と名乗る(「盛」は大内氏の通字の一つである)。

1431年に第11代当主・大内盛見(義弘の弟)が大友氏少弐氏と戦って筑前国で敗死した後、大内氏内部では跡継ぎをめぐって争いが起こった。生前、大内盛見は甥にあたる大内持世に大内家の家督と長門国を除く所領を継がせ、その弟であった持盛に長門国守護職を継ぐように遺言していたとされる。一方、室町幕府から重用されていた僧侶・満済[注釈 2]が書いた『満済准后日記』にはやや違った話が載せられている。満済とも面識があった大内氏重臣・内藤智得山名時熙を通じて持盛が大内家の家督と周防国と安芸国の一部の所領を継がせ、持世に長門国・筑前国・豊前国を継がせ、一族の大内満世に迩摩郡(石見国)と長門の一部を与える案を満済に伝え、満済はこれを将軍・義教に取り次いだ(永享3年9月3日条)。ところが、後になって内藤は別の僧侶を満済の元に派遣し、生前の盛見が持盛が後を継ぐことに不安を抱いており、自分としては持世を後継者に推挙する旨を伝えてきたのである(同年9月24日条)。その結果、幕府の評議は持世を後継者にすることにし、持世に大内家の家督を継がせる御判と持盛に長門国と石見国迩摩郡・安芸の一部を安堵する御教書を出したという(同10月19・23日条)[6]。この変化について、大内氏の後継を巡る幕府との交渉を任されていた内藤智得が持盛が自分の競合相手であった陶盛政を重用した事に反発して持世支持に転じた事が関係するとみられている[7]

結果、後継から外されることになった持盛は不満を抱き、持世とともに九州へと出陣していた永享4年2月10日に突如反乱を起こして持世を石見国に追って大内氏領国を制圧する。だが、持世は国人衆の支持を背景にして持盛を攻撃して領国を奪還、1433年4月27日永享5年4月8日[2]))に、持盛は敗れ豊後国篠崎において討死する[1][2]。37歳[2]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 大内義弘を第25代当主。大内持世を第27代当主と記述する文献もある[4]
  2. ^ 『満済准后日記』正長元年5月26日条によれば満済は足利義教から大内氏の申次に任ぜられており、在京被官を長く務めた経歴を持つ内藤智得も満済を通じて幕府と交渉したとみられる[5]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f 近藤清石 1885, 巻第6.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 御薗生翁甫 1980, p. 20.
  3. ^ a b c d 御薗生翁甫 1980, p. 19.
  4. ^ 御薗生翁甫 1980, pp. 18–19.
  5. ^ 藤井崇 2013, p. 172.
  6. ^ 藤井崇 2013, pp. 168–171.
  7. ^ 藤井崇 2013, pp. 171–172.

参考文献

[編集]
  • 近藤清石『大内氏實録』中元壮作、宮川臣吉、山口県山口町、1885年10月28日。 NCID BA33800345 オープンアクセス国立国会図書館デジタルコレクション
  • 藤井崇「盛見の戦死と内藤智得」『室町期大名権力論』同成社〈同成社中世史選書(14)〉、2013年。ISBN 9784886216502全国書誌番号:22348379 
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション

関連項目

[編集]