大内教弘
時代 | 室町時代 |
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生誕 | 応永27年3月20日(1420年5月2日) |
死没 | 寛正6年9月3日(1465年9月23日) |
改名 | 六郎(幼名)→教弘 |
別名 | 新介(通称)、周防介 |
官位 |
左京大夫、大膳大夫、従五位下、従四位下 贈従三位 |
幕府 | 室町幕府周防・長門・筑前・豊前・肥前守護 |
主君 | 足利義教→義勝→義政 |
氏族 | 多々良姓大内氏 |
父母 |
父:大内盛見(大内持盛とも) 養父:大内持世 |
兄弟 | 教幸、教弘 |
妻 | 正室?:山名宗全の養女(山名熙貴の娘) |
子 | 政弘、娘(大友政親室)、娘(山名政理室)、娘(佐伯親春室) |
大内 教弘(おおうち のりひろ)は、室町時代中期の守護大名。周防・長門・筑前・豊前・肥前守護。大内氏第13代当主。第11代当主大内盛見の子(一説には大内持盛の次男)。教幸の弟[注釈 1]。妻は山名宗全の養女(山名熙貴の娘)。政弘、娘(大友政親室)、娘(山名政理室)、娘(佐伯親春室)の父。
幼名は六郎、のち元服に際して6代将軍・足利義教より偏諱を受け教弘と名乗る。通称は新介、周防介。官位は左京大夫、大膳大夫、従五位下、従四位下、死後に従三位。
生涯
[編集]従兄弟の第12代当主大内持世の養嗣子となる。嘉吉元年(1441年)、持世が嘉吉の乱(将軍・義教の暗殺事件)に巻き込まれて死去したため後を継いで当主となり、周防・長門・筑前・豊前の4ヶ国を領する。当主就任後は幕命に従って嘉吉2年(1442年)に九州探題渋川教直と共に少弐教頼と交戦し、宗氏を頼って対馬へ逃れた少弐氏を討伐するために李氏朝鮮に対して対馬の一部割譲を提言している。嘉吉3年(1443年)山名氏との関係強化のために石見守護であった山名熙貴の娘を宗家の持豊(宗全)の猶子として娶る(『建内記』嘉吉3年6月3日条)。
文安3年(1446年)、長門国守護代鷲頭弘忠を解任し、文安5年2月17日に弘忠を長門国深川城にて攻め滅ぼした。鷲頭氏は大内氏と同族でかつ大内氏が周防国を征服するまで同国の守護を務めていた名家であったことに加え、弘忠が筑前国粥田荘の本家(仁和寺)代官の地位を利用して領家(金剛三昧院)代官を追放して支配下に置こうとしたことが教弘の怒りを買ったともいわれている[5]。教弘は領内の荘園を保護する一方で、事実上の東大寺領であり大内氏歴代当主も手を出しづらかった周防国の国衙領にも夫役を課すなど、守護権力の強化に努めた[6][7]。
大内氏は安芸東部の東西条(東広島市)を領有していたが、安芸中央の分郡守護武田信繁・信賢父子と対立し文安4年(1447年)に安芸へ侵攻、長禄元年(1457年)、婿の厳島神社神主佐伯親春が信賢に所領を横領されたため教弘を頼り、教弘は信繁の居城佐東銀山城と己斐城を攻めたが、幕府の命令を受けた毛利煕元・小早川煕平・吉川之経らの救援で両城の奪取に失敗した上、幕府は教弘の大内氏当主の地位を剥奪し、嫡男・亀童丸(後の政弘)に与えることとした[注釈 2]。なお、長禄3年(1459年)には、長禄合戦に敗れた斯波義敏が亡命している(寛正6年(1465年)に上洛)。
寛正2年(1461年)には幕府は斯波義敏を匿っていることを理由に教弘討伐を決め(『教覚私要鈔』寛正2年1月22日条)、教弘の領土だった東西条を武田氏に与え、引渡しの命令を伝えるために小早川煕平を山口に派遣する検討をしている。これに反発した教弘は平賀弘宗・小早川盛景らと共に東西条に出陣、細川氏及び幕府の支援を受けた武田氏と戦い、大内氏の勢力を安芸・石見・肥前に拡大した。細川氏と朝鮮との交易(日朝貿易・日明貿易)を巡って争い勝利、朝鮮と通交する。寛正4年(1463年)になると、先の処分が取り消され、名実ともに大内氏当主に復帰する。この頃、出家したとみられている。寛正6年(1465年)6月に幕府は先の東西条を武田氏の渡す命令を取り消して大内氏への返還を決めるが、管領として幕政に大きな影響を与えていた細川氏との対立は幕府との関係を悪化させていく。この年の8月、幕命に従って伊予の河野通春討伐に伊予に渡海。すると逆に通春と手を結んで四国における細川勝元の軍に対して優位に戦ったが、9月3日、興居島で死去。享年46。死後、家督は長男の政弘が継いだ。
また、文化に対しても造詣が深く、雪舟を招聘して明に渡海させようとした。和歌や連歌にも通じていた。
偏諱を与えた人物
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 須田牧子は以参周省筆「文明16年11月27日陶弘護肖像賛」[1]より、教弘を兄・教幸を弟とする従来の説は誤りで実際は教幸が兄をするのが正しいこと、嘉吉の乱以前より教幸が少弐氏とともに大内持世に反抗して室町幕府より追討対象にされていたことを示す文書[2][3]の存在を示して、室町幕府から追われていた教幸ではなく、弟である教弘が大内氏の家督を継いだとする[4]。
- ^ 和田秀作「大内武治及びその関連史料」『山口県文書館研究紀要』30号(2003年)及び藤井、2013年、P213・231。ただし、その影響については教弘流の惣領としての立場が動揺したと解する和田の見解と当主剥奪後も大内氏本国において幼少の亀童丸の父親である教弘が実権を握っている実態には変わりがないので当主剥奪の命令が出されてもその実効性は乏しかったとする藤井の見解がある。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 近藤清石『大内氏實録』中元壮作、宮川臣吉、山口県山口町、1885年10月28日。 NCID BA33800345。NDLJP:780384
- 佐藤和彦、錦昭江、松井吉昭、櫻井彦、鈴木彰、樋口州男共編『日本中世内乱史人名事典』新人物往来社、2007年5月。 NCID BA81884925。
- 須田牧子『中世日朝関係と大内氏』東京大学出版会、2011年2月。ISBN 9784130262279。 NCID BB0510627X。
- 広島県 編『広島県史』 2:中世 通史、広島県、1984年。 NCID BN01628493。
- 藤井崇「教弘期大内氏の分国支配と「御家人制」」『歴史評論』第700号、歴史科学協議会/校倉書房、2008年8月、56-68頁、ISSN 03868907。
- 改題・改稿「教弘期の分国支配」藤井崇『室町期大名権力論』同成社〈同成社中世史選書(14)〉、2013年。ISBN 9784886216502。全国書誌番号:22348379。