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裏松光世

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大内裏図考証から転送)
 
裏松光世
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 元文元年11月11日1736年12月12日
死没 文化元年7月26日1804年8月31日
改名 光世→固禅(法名)
官位 正五位下、蔵人左大弁、贈正四位
主君 桃園天皇
氏族 烏丸家裏松家
父母 父:烏丸光栄、養父:裏松益光
兄弟 烏丸尹光日野資総勘解由小路資望光世日野資枝烏丸光胤室、松平定賢継室
恭光、直子、周子
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裏松 光世(うらまつ みつよ、1736年元文元年〉 - 1804年文化元年〉)は、江戸時代中期から後期にかけての公家有職故実家内大臣烏丸光栄の五男。裏松益光養子裏松家第5代当主。法名は固禅(こぜん)。『大内裏図考証』の著者。

経歴

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1736年(元文元年)11月、烏丸光栄の末子(五男)として京都に生まれる[1][2][3]1747年延享4年)12歳のとき前権中納言・裏松益光の養子に入って裏松家の嗣子となり[2][1]、同年12月従五位下に叙される[1]

思想家・竹内敬持(竹内式部)の門人として、1758年宝暦8年)23歳・左少弁のとき宝暦事件連座江戸幕府の忌諱にふれて遠慮(籠居)処分を受けた[4]。2年後「所労と称し出仕致さざる事」との沙汰により永蟄居を命ぜられ、出家させられた。法名を固禅と号した。その後30年の蟄居生活の間に平安京を研究して『大内裏図考證』を著した[5]1788年天明8年)の京都の大火で内裏が焼失し、その再建にあたり、その考証を参考とすることとなった。その功により、勅命により赦免される。また褒賞として錦5把、銀10枚を下賜された[要出典][注釈 1]

多くの著作を残し[6]1804年文化元年)7月、満67歳で死去[1]

1891年明治24年)、従四位を追贈された[7]

『大内裏図考證』

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大内裏研究の第一の書とされる。平安京左右両京の区画制度、離宮、摂関の邸第などから書き始めて、大内裏構内の諸殿舎に関して綱をあげ、目をわかち、古図旧記を掲げて例証し詳しく解説している。朝堂院の付録として大嘗宮に関する考証を載せ、紫宸殿清涼殿の付録として両殿内の調度を記すなど、関係事項を網羅し、すこぶる用意周到である。本書がおおよそ完成した年に発生した天明の大火により皇居が炎上・焼失したが、2年後の1790年寛政2年)新造内裏が古制に拠って再建されたのには、光世の功績が絶大であった。

ただし、大内裏図など一部に不備な点があるとして、これを惜しんだ尾張藩徳川斉朝の命を受けた内藤広前により、文政年間から天保年間にかけて補訂が施された[8]。広前は新たに附図9巻を製作し[注釈 2]、これが明治に入り「故実叢書」に収録されて流布した[2]

『大内裏図考証』は明治期まで版本は刊行されておらず写本として流通した[12]1788年天明8年)までにほぼ完成したと見られ[13]1797年寛政9年)朝廷清書本が献上された[注釈 3]。なお、1773年安永2年)ごろからは藤貞幹(藤原貞幹)が研究に協力し、大きな役割を果たした[注釈 4]明治以後に公刊された「故実叢書」収録本では和装全14冊[注釈 5]。構成については、10冊程度を合冊し一まとめにしているものなど著作者が諸巻について検討を加えておらず[要出典]、現存の伝本の冊数構成はまちまちである[27]。光世自筆の稿本や写本などは東京大学史料編纂所に「裏松家史料(裏松家記録)」として所蔵されている[28][29][30]

古代日本の宮都史を専門とした橋本義則2011年平成23年)の著書『古代宮都の内裏構造』において光世の努力を認めつつも、彼があまりにも多くの古今の書籍を参照してしまったために、内裏の歴史的変遷という視点が欠落してしまい(内裏は火災で幾度も焼失しており、その都度まったく同じ構造の建物が再建されたわけではない)、結果的にかつてどの時点においても実在したことのない内裏の図ができ上がってしまった、と批判している[31]

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1798年寛政10年)には、内裏再建以後の御用勤仕と『大内裏図考証』献上の功績により朝廷から生涯金30斤を下賜された[1]
  2. ^ 広前が作成した「大内裏図」は京城略図、内裏図(附中和院)、真言院図、八省院図、豊楽院図、太政官図、神祇官図、武徳殿図、大学寮図の9編からなる[9]。図の完成は1840年天保11年)とされ、研究者の詫間直樹は故実叢書本に添えられた「大内裏図考証小伝」の記述[10]に徴して、内藤広前による補訂は文政年間に始まったと紹介している[8]。広前は、屋代弘賢が尾張藩にもたらした『大内裏図考証』(50巻・別録10巻)の写本のみを補正しており、固禅の稿本として残る本格的な図面は見ていないと考えられている[11]
  3. ^ 光世は1794年(寛政6年)5月に朝廷から『大内裏図考証』献上の命を受け[14]、3年後の1797年(寛政9年)12月10日に唐櫃に収めて献上した[15]朝廷に献上した清書本は30巻全50冊の構成で、挿図以外の別添えの図面や絵画資料は含んでいない[16]。この献上本および櫃は宮内庁書陵部に現存し[15]国書データベースでデジタルデータが公開されている[17]。献上後も光世は死の直前まで同書の校訂を続け、新たな稿を作成している[18][19]
  4. ^ 光世は1771年明和8年)冬に藤貞幹に自らの研究の補佐を要請した[20]。貞幹は少なくとも1773年安永2年)以降、光世の故実研究を支えた[21][22]
  5. ^ 『大内裏図考証』は今泉定介が編者を務めた「故実叢書」[23]中の和装本14冊として1901年(明治34年)に吉川半七(子の二代目吉川半七が合資会社吉川弘文館を設立)の手で初めて公刊された[24]。のち、洋装本として「増訂故実叢書」「新訂故実叢書」にも所収[24]。故実叢書本の底本は明記されていないが、蓬左文庫本(尾張徳川家所蔵本)あるいはその写本と考えられ、宮内省本・帝国図書館本・内閣文庫本などで校訂された[25]。なお同叢書に収録されたのは内藤広前による補訂本であり、光世生前の最終稿とは異なる[26]

出典

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  1. ^ a b c d e 藤田勝也京樂真帆子、岩間香「裏松固禅の住宅史研究資料に関する学際研究 : 『院宮及私第図』と『諸家亭宅寝殿考証』」『住宅総合研究財団研究論文集』第32号、住宅総合研究財団、2006年4月、130頁、doi:10.20803/jusokenold.32.0_129ISSN 1880-2702 
  2. ^ a b c 詫間直樹 2004, p. 15.
  3. ^ 白石良夫裏松光世」『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/%E8%A3%8F%E6%9D%BE%E5%85%89%E4%B8%96#E6.9C.9D.E6.97.A5.E6.97.A5.E6.9C.AC.E6.AD.B4.E5.8F.B2.E4.BA.BA.E7.89.A9.E4.BA.8B.E5.85.B8コトバンクより2024年4月29日閲覧 “没年:文化1.7.29(1804.9.3)/生年:元文1.11.11(1736.12.12)”
  4. ^ 藤田覚徳大寺公城の学芸・垂加神道修得と党派形成 : 「公城卿記」を通して」『東京大学史料編纂所研究紀要』第30号、東京大学史料編纂所、2020年3月、44頁、CRID 1520009409625890432ISSN 0917-2416  ※「表1 竹内式部門人表」参照。
  5. ^ 橋本政宣裏松光世」『世界大百科事典〈改訂新版〉』https://kotobank.jp/word/%E8%A3%8F%E6%9D%BE%E5%85%89%E4%B8%96#E6.94.B9.E8.A8.82.E6.96.B0.E7.89.88.E3.80.80.E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8コトバンクより2024年4月29日閲覧 
  6. ^ 詫間直樹 2004, p. 28.
  7. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝〈増補版〉』上巻(近藤出版社、1975年)「特旨贈位年表」p. 6。
  8. ^ a b 詫間直樹 2004, pp. 17–18, 註(18).
  9. ^ 詫間直樹 2004, p. 17, 註(18).
  10. ^ 詫間直樹 2004, p. 17“内藤広前(中略)文化〔文政ノ誤リ〕中、尾張侯の為に、大内裏図考証を校訂し、其の誤を正し、足らざるを補ひ、新たに全図9巻を製作し、これを添えて以て完璧としたり”
  11. ^ 詫間直樹 2004, pp. 17–18, 28, 註(20).
  12. ^ 詫間直樹 2004.
  13. ^ 詫間直樹 2004, p. 24-25“第一次稿本の作成については、裏松家本・資料館本の [...] 諸巻裏表紙に記された注記より、天明3、4年から同7年頃までの期間にその作業をほぼ終えたものとみられる。[...] 天明末年までに第一次稿本作成をほぼ終えていたが、天明の大火とそれに続く復古内裏造営事業の開始により [...]”
  14. ^ 詫間直樹 2004, p. 25.
  15. ^ a b 詫間直樹 2004, p. 26.
  16. ^ 詫間直樹 2004, p. 19.
  17. ^ 裏松光世. “大内裏圖考證(だいだいりずこうしょう)(宮内庁書陵部所蔵本)”. 国書データベース. 国文学研究資料館. doi:10.20730/100292990. 2024年4月28日閲覧。
  18. ^ 詫間直樹 2004, p. 26-29.
  19. ^ 藤田,京樂,岩間 2006, p. 131“『大内裏図考証』は献上後も固禅による校訂作業が文化元年(1804)の死去前年まで継続する。対して『院宮』の修訂作業については判然としない。仮に未実施とすると、固禅の研究の協力者、とくに藤貞幹の寛政9年(1797)8月死去という事態が、あるいは大きく影響していよう。”
  20. ^ 詫間直樹 2004, p. 16.
  21. ^ 詫間直樹 2004, pp. 16, 34.
  22. ^ 藤田勝也、宮崎隆志「「東三条殿図」について : 裏松固禅『院宮及私第図』に関する研究 1」『日本建築学会計画系論文集』第70巻第591号、日本建築学会、2005年5月、pp. 183, 185、CRID 1390282679760921984doi:10.3130/aija.70.179_1ISSN 1881-8161  ※註(23)(24)参照。
  23. ^ 故実叢書」『百科事典マイペディア』https://kotobank.jp/word/%E6%95%85%E5%AE%9F%E5%8F%A2%E6%9B%B8#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2コトバンクより2024年4月27日閲覧 
  24. ^ a b 詫間直樹 2004, p. 30, 註(7).
  25. ^ 詫間直樹 2004, pp. 28, 33, 註(53).
  26. ^ 詫間直樹 2004, p. 15,17.
  27. ^ 詫間直樹 2004, p. 18-24, 27.
  28. ^ 詫間直樹 2004, p. 18.
  29. ^ 所蔵資料紹介|特殊蒐書 : 公家史料”. 東京大学史料編纂所. 東京大学史料編纂所. 2024年4月30日閲覧。
  30. ^ 裏松家記録”. 日本の大学所蔵特殊コレクション. ドイツ日本研究所 (2012年). 2024年4月30日閲覧。
  31. ^ 橋本義則『古代宮都の内裏構造』吉川弘文館、pp. 1-2。

参考文献

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外部リンク

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