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山田上ノ山古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大坂磯長陵から転送)
山田上ノ山古墳

墳丘正面
孝徳天皇大阪磯長陵 拝所)
所属 磯長谷古墳群
所在地 大阪府南河内郡太子町大字山田
位置 北緯34度31分3.14秒 東経135度39分15.84秒 / 北緯34.5175389度 東経135.6544000度 / 34.5175389; 135.6544000座標: 北緯34度31分3.14秒 東経135度39分15.84秒 / 北緯34.5175389度 東経135.6544000度 / 34.5175389; 135.6544000
形状 円墳
規模 直径32m
埋葬施設 不明
被葬者宮内庁治定)第36代孝徳天皇
陵墓 宮内庁治定「大阪磯長陵」
地図
山田上ノ山古墳の位置(大阪府内)
山田上ノ山古墳
山田上ノ山古墳
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地図
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750 m
葉室塚
石塚
釜戸塚
二子塚
叡福寺北 (聖徳太子)
山田上ノ山 (孝徳)
山田高塚 (推古)
春日向山 (用明)
.
太子西山 (敏達)

山田上ノ山古墳(やまだうえのやまこふん)は、大阪府南河内郡太子町山田にある古墳。形状は円墳磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)」として第36代孝徳天皇に治定されている。

概要

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大阪府南東部、二上山山麓の磯長谷において、二上山から西方に派生する丘陵の先端部に築造された古墳である[1]。丘陵前には竹内街道が通る[1]江戸時代には「北山陵」と称されたほか[2]、かつては「鶯陵(うぐいすのみささぎ)」とも称され[1][3][4]、『河内名所図会』では『枕草子』の「うぐひすのみささぎ」を本古墳に比定する[1][注 1]。現在は宮内庁治定の天皇陵として同庁の管理下にあるため、これまでに本格的な調査はなされていない。

墳形は円形で、南西方に面する[2]。墳丘は直径32メートルを測り、小規模な円墳になる[1][3]。埋葬施設などは明らかでない[1]。関連出土品として、かつて陪塚から出土したという海獣葡萄鏡が知られるが、その出土地の詳細は明らかでない(現在では陪塚等は知られない)[3][4]。被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁により第36代孝徳天皇654年崩御)のに治定されている[2]7世紀の王陵としては懐疑的な見解もある一方[5]、その小さい墳丘規模に生前の薄葬令の反映を推測する説もある[3]。磯長谷では孝徳天皇陵のほか敏達用明推古天皇陵と聖徳太子墓が伝わっており、これらは「梅鉢御陵」と総称される。

被葬者

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山田上ノ山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第36代孝徳天皇に治定している[6][7][2][8]。孝徳天皇について、『日本書紀』では白雉5年(654年)10月[原 1]に崩御し、同年12月[原 2]に「大坂磯長陵」に葬られたとする[2][5]。『延喜式諸陵寮[原 3]では孝徳天皇陵は遠陵の「大坂磯長陵」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西5町・南北5町で守戸3烟を毎年あてるとする[2]。その後、元禄の探陵の際に現陵に治定され(他に古市にも孝徳天皇陵伝承地が存在した)、元治元年(1864年)に修復および拝所整備等が実施された[2]。現在の陵号には「坂」でなく「阪」の字が使用される。

梅鉢御陵関係系図
石姫
太子西山古墳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29 欽明
 
 
 
蘇我氏
小姉君
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蘇我氏
堅塩媛
 
 
 
 天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広姫
 
 
 
30 敏達天皇
太子西山古墳
 
 
 
33 推古天皇
山田高塚古墳
31 用明天皇
春日向山古墳
 
 
 
穴穂部間人皇女
叡福寺北古墳
32 崇峻天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
押坂彦人大兄皇子竹田皇子
山田高塚古墳
[膳氏]
膳郎女
叡福寺北古墳
 
聖徳太子
叡福寺北古墳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
茅渟王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
36 孝徳天皇
山田上ノ山古墳
35 皇極天皇 /
37 斉明天皇
 
34 舒明天皇
 

脚注

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注釈

  1. ^ 『枕草子』の「うぐひすのみささぎ」については、鶯塚古墳(奈良県奈良市)に比定する説もある(「鶯塚古墳」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』 平凡社、1981年)。

原典

  1. ^ 『日本書紀』白雉5年(654年)10月壬子(10日)条。
  2. ^ 『日本書紀』白雉5年(654年)12月己酉(8日)条。
  3. ^ 『延喜式』巻21(治部省)諸陵寮条。

出典

  1. ^ a b c d e f 上ノ山古墳(平凡社) & 1986年.
  2. ^ a b c d e f g 大阪磯長陵(国史).
  3. ^ a b c d 王陵の谷・磯長谷古墳群 & 1994年, pp. 21–22.
  4. ^ a b 孝徳天皇陵(山田上ノ山古墳)(太子町ホームページ)。
  5. ^ a b 『新編日本古典文学全集 4 日本書紀 (3)』小学館、2003年(ジャパンナレッジ版)、p. 199。
  6. ^ 天皇陵(宮内庁)。
  7. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)12コマ。
  8. ^ 『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、p. 407。

参考文献

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  • 国史大辞典吉川弘文館 
    • 関晃 「孝徳天皇」石田茂輔 「大阪磯長陵」(孝徳天皇項目内)
  • 「上ノ山古墳」『日本歴史地名大系 28 大阪府の地名』平凡社、1986年。ISBN 458249028X 
  • 「孝徳天皇陵」『王陵の谷・磯長谷古墳群 -太子町の古墳墓-』太子町教育委員会(太子町立竹内街道歴史資料館)、1994年、21-22頁。 

関連項目

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外部リンク

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