大場栄
表示
この記事は英語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2021年5月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。
|
大場 栄 | |
---|---|
大場栄(1937年 陸軍歩兵曹長時代) | |
生誕 |
1914年3月21日 日本・愛知県宝飯郡蒲郡町(現:蒲郡市) |
死没 | 1992年6月8日(78歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1934 - 1945 |
最終階級 | 大尉 |
大場 栄(おおば さかえ、1914年〈大正3年〉3月21日 - 1992年〈平成4年〉6月8日) は、大日本帝国陸軍軍人、実業家、政治家。最終階級は大尉。有限会社丸栄産業代表取締役、蒲郡市議会議員。愛知県蒲郡市出身[1]。
年譜
[編集]伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
- 1914年(大正3年)3月21日、農家・大場伊助の長男として愛知県蒲郡町(当時)に生まれる。
- 1933年(昭和8年)3月、愛知県実業教員養成所卒業。
- 1933年(昭和8年)4月、御津町立実業学校の地理教諭となる。
- 1934年(昭和9年)、徴兵を受けて大日本帝国陸軍に入営。歩兵第18連隊に配属される。
- 1935年(昭和10年)、将校を目指し甲種幹部候補生となる。
- 1936年(昭和11年)、豊橋市立吉田方尋常小学校教諭となる。
- 1937年(昭和12年)8月、日中戦争(支那事変)に出征。
- 1937年(昭和12年)12月、予備陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第18連隊附。
- 1938年(昭和13年)4月、特別志願将校となる。
- 1939年(昭和14年)8月、現役の陸軍歩兵中尉に任官。
- 1941年(昭和16年)11月、歩兵第18連隊中隊長に任じられる。
- 1943年(昭和18年)3月、太平洋戦争(大東亜戦争)中、大尉に昇任。
- 1944年(昭和19年)2月、歩兵第18連隊衛生隊長となり、連隊はサイパン島へ転出。
- 1944年(昭和19年)9月30日、サイパンの戦いで戦死と判断され少佐に特進する(生存が確認された後に取り消しとなる)。サイパン島守備隊である第43師団が玉砕した後も大場隊はタポチョ山(タッポーチョ山)を拠点にゲリラ化し、日本がポツダム宣言を受諾した後も遊撃戦を展開する。
- 1945年(昭和20年)11月27日(発令は25日)、独立混成第9連隊長・天羽馬八少将から正式な降伏命令を受ける。
- 1945年(昭和20年)12月1日、大場隊47人はアメリカ合衆国軍に投降した。慣例として、投降式典において大場は(降伏の証として)、自身の軍刀をアメリカ合衆国軍将校に手渡した(なお、この模様を撮影した写真が現存している)[2]。
- 復員後1952年(昭和27年)から1992年(平成4年)まで有限会社丸栄産業代表取締役。
- 1967年(昭和42年)4月から1979年(昭和54年)3月まで愛知県蒲郡市議会議員。
- 1992年(平成4年)6月8日死去。
小説・映画
[編集]大場と大場隊の活躍は、元アメリカ合衆国海兵隊隊員ドン・ジョーンズ著の『タッポーチョ「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日(原題『OBA, THE LAST SAMURAI Saipan 1944-1945』)』(1982年刊行。中村定訳、祥伝社)としてノンフィクション小説となった。
2011年(平成23年)にはそれを原作とする映画『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-』(監督・平山秀幸)が公開され、竹野内豊が大場役を演じた[3]。
関連書籍
[編集]『大場栄と峯子の戦火のラブレター』 水谷眞理、竹内康子(編集)、古池もも(イラスト)、水谷眞理(監修)2011年2月刊行。 これから出版 ISBN 978-4-903988-02-3
脚注
[編集]- ^ “夫を待つ妻の気遣いと激励 大場栄さん、峯子さん「戦火のラブレター」 生誕100年迎え蒲郡で手紙展”. 東愛知新聞 (東愛知新聞社). (2014年8月8日). オリジナルの2016年3月4日時点におけるアーカイブ。 2016年9月25日閲覧。
- ^ “映画『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-』 公式サイト サイパンキャンペーン” (2011年3月6日). 2011年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年11月29日閲覧。
- ^ “映画『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-』 公式サイト 沖縄キャンペーン” (2011年2月25日). 2011年2月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年11月29日閲覧。