大岡忠移 (旗本)
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保8年(1723年)(享保5年(1720年)?) |
死没 | 明和元年6月12日(1764年7月10日) |
改名 | 忠禁(初名)→忠移 |
別名 | 吉次郎(通称) |
戒名 | 敬光院殿□譽心巌大居士 |
墓所 | 長崎県長崎市鍛冶屋町の正覚山大音寺 |
官位 | 従五位下、美濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
氏族 | 大岡氏 |
父母 |
父:大岡忠陣、母:成瀬正起の娘 養父:大岡忠斟 |
兄弟 | 忠斟、忠移、島田常政室、本多忠儀室 |
妻 | 正室:曲淵英元の娘 |
子 | 養子:忠順 |
大岡 忠移(おおおか ただより)は、江戸時代中期の旗本。大岡忠陣の次男。2300石(2267石とも)を知行した。
生涯
[編集]元文元年(1736年)、小普請であった兄忠斟(隼之助)の家督を継いだ。宝暦11年(1761年)9月28日に第25代山田奉行に任じられ、宝暦13年(1763年)6月1日 、同職から長崎奉行に転身。在任中、同じく長崎奉行の石谷清昌(備後守)とともに中国貿易の再編に着手した。宝暦14年(1764年)、長崎奉行を辞し、同年に死去した。享年41(45)。家督は養子の忠順(大岡忠恒の次男)が継いだ。