コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

大崎直持

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大崎直持
時代 南北朝時代
生誕 嘉暦2年(1327年[1]
死没 弘和3年/永徳3年11月2日1383年11月26日[1]
改名 彦三郎(仮名)[2]→斯波直持→大崎直持
官位 治部大輔左京大夫[2]
幕府 室町幕府 若狭守護代奥州管領[3]
主君 足利義詮義満
氏族 清和源氏足利氏斯波氏支流大崎氏
父母 父:斯波家兼
兄弟

直持、斯波兼頼天童義宗[4]持義[2]

西室持頼[5]斯波将頼
詮持
テンプレートを表示

大崎 直持(おおさき ただもち[6])は、南北朝時代武将奥州管領大崎氏初代当主。

生涯

[編集]

嘉暦2年(1327年)、斯波家兼の嫡男として誕生。

正平7年/観応3年(1352年)の治部大輔直持が初見[6][7]。父が若狭国守護であったので守護代として若狭勢を率い[1]足利義詮を援けて持明院御所を警固したという。正平9年/文和3年(1354年)に父が奥州管領に補任されるとそれに従って陸奥国に入部。正平11年/延文元年(1356年塩釜神社に馬を奉納する[8]。 同年父が逝去すると直ちに奥州管領として行動した[9]

正平16年/康安元年(1361年)左京権大夫[10]となり、陸奥禅福寺を祈祷所とした[11]。正平17年/貞治元年(1362年相馬氏を陸奥東海道検断職に任じ[12]、正平18年/貞治2年(1363年)左京大夫の官途を有した[13]。この年、幕府の命により陸奥飯野八幡社を保護している[14]。正平19年/貞治3年(1364年)、相馬氏・吉良氏の叙任を推挙し[15]、正平21年/貞治5年(1366年)、陸奥好島荘預所伊賀氏に年貢を催促し[16]、 同年、結城顕朝に陸奥高野郡を安堵する[17]

この頃に姓を先祖の足利家氏が領していた下総国香取郡大崎[18]に因んで「大崎」としている。

正平22年/貞治6年(1367年)、2代将軍・足利義詮は結城顕朝宛て御教書を発給し、石橋棟義に協力し、奥州の両管領と共に吉良治家を挟撃するよう命じている[3]。当時、治家は幕府から謀反人と認定されており、常陸小田氏の家臣と連携して多賀城に迫る勢いを見せていたらしい。幕府は治家には奥州両管領を、常陸小田氏家臣には石橋棟義をそれぞれ鎮圧にあてていたが、小田氏家臣らが国境を越え陸奥高野郡に侵入、治家に呼応する動きを見せたため、治家討伐に全力を注ぐよう方針を転換、常陸国の石橋棟義に奥州侵攻を命じ結城氏にも軍に加わるよう命じたのである。義詮の御教書にある「両管領」のうち一人は直持である[19]

天授元年/永和元年(1375年)、嫡男・詮持葛西氏に所領を交付している[20]ため、実権は移っていたと思われる。

弘和3年/永徳3年(1383年)11月2日、死去。説によっては詮持から大崎姓を名乗ったとする見解もある。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社
  2. ^ a b c 『系図纂要』巻64清和源氏(13)大崎氏
  3. ^ a b 「白川文書」「連絡按文」『大日本史料』6編27冊933頁、4月5日条
  4. ^ 『系図纂要』によれば持義と同一人物であり『続群書類従』によれば、塩松伊予守持義にあたる。
  5. ^ 持頼式部大輔西室殿 続群書類従 5上(系図部)
  6. ^ a b 名は「なおもち」とも読む。「ただ」の読みから足利直義から偏諱を受けたものと考えられるが、観応3年(1352年)以前の観応の擾乱などにおける詳しい動向は解っていない。本文中にある通り、のちに足利義詮に従属していることから、読みを改めた可能性も考えられる。
  7. ^ 『大日本史料』第6編16冊394頁、「古證文」
  8. ^ 『大日本史料』第6編20冊348頁。「塩釜神社文書」
  9. ^ 『大日本史料』6編20冊896頁。「留守文書」氏家彦十郎を通して陸奥宮城郡内余目郷等の旧宅を留守松法師代道即に交付させた。
  10. ^ 『大日本史料』6編23冊651頁。「留守文書」
  11. ^ 『大日本史料』6編23冊734頁。「岩城文書」
  12. ^ 『大日本史料』6編24冊499頁。「相馬文書」
  13. ^ 『大日本史料』6編25冊142頁。「相馬文書」
  14. ^ 『大日本史料』 6編25冊222頁。「飯野八幡社古文書」
  15. ^ 『大日本史料』6編26冊93頁。「相馬岡田文書」
  16. ^ 『大日本史料』6編27冊52頁。「飯野八幡社古文書」
  17. ^ 『大日本史料』6編27冊643頁。「白河証古文書」
  18. ^ 現・千葉県香取市大崎。
  19. ^ 吉良満家及び大崎直持。「白河文書」脚注、『大日本史料』6編27冊933頁、4月5日条
  20. ^ 『大日本史料』6編43冊282頁。「秋田藩採集文書」

参考文献

[編集]