大河内龍
おおこうち りゅう 大河内龍 | |
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本名 | 山田 通(やまだ とおる) |
別名義 |
田川 通(たがわ とおる) マキノ 梅太郎(まきの うめたろう) |
生年月日 | 1909年5月 |
没年月日 | 不詳年 |
出生地 | 静岡県沼津市 |
職業 | 俳優 |
大河内 龍(おおこうち りゅう、1909年5月 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名山田 通(やまだ とおる)。京都の撮影所の助監督から俳優に転向、トーキー時代にサイレント映画を量産した全勝キネマで剣戟スターとしていきなり大成する[1]。大部屋時代は田川 通(たがわ とおる)、一時マキノ 梅太郎(まきの うめたろう、二代目)を名乗った。
来歴・人物
[編集]1909年(明治42年)5月、静岡県沼津市に生まれる。映画女優の岡島艶子の親戚にあたる[2]。
三重県の旧制三重県励精中学校(現在の三重県立津商業高等学校)から三重師範学校(現在の三重大学教育学部)に転学、卒業後は教員への道を進まず、京都のマキノ・プロダクションに入社、助監督部に配属になる。二川文太郎に師事するも、俳優部に異動する。「田川通」名義で端役に出演していたが、19歳となった1928年(昭和4年)5月に、当時「マキノ青年派」五人組で売り出していたマキノ梅太郎が退社したことから、急遽「二代目マキノ梅太郎」を襲名、同五人組の売り出し映画シリーズ『神州天馬侠』の第三篇・第四篇に出演する[3]。しかしその後は大部屋俳優として日々を過ごしていた。
27歳になった1936年(昭和11年)11月、奈良県生駒郡伏見村(現在の奈良市あやめ池北1丁目)に同年5月に設立されたばかりの「全勝キネマ」に俳優として入社、「大河内龍」を名乗る。同社は、松竹に吸収された市川右太衛門プロダクションが閉鎖した「あやめ池撮影所」と、市川右太衛門が主演しない映画をつくった「右太プロ第二部」のB級スターたちを残留させて、右太衛門の実兄・山口天龍が設立した会社だった。大河内は、伊藤大輔原作、志波西果脚本・監督による『菩薩殺生剣』で同年いきなり主役を張る。全勝生え抜きの剣戟スターとなり、同社が製作した170数本のうち、50数本に出演、そのうち40数本に主演した。
日活、松竹、P.C.L.映画製作所、新興キネマ、あるいはマキノ・トーキー製作所といったメジャー会社がトーキーに躍起になっている時代に、大河内が在籍した全勝キネマは、極東映画社、大都映画とともにサイレント映画を量産した。1940年(昭和15年)、「全勝キネマ」もやはり松竹の傘下に入り、翌1941年(昭和16年)1月に公開した3本をもって製作を終了、合併して松竹資本の「興亜映画」となった。同社の最終作『尾州三勇士』にも大河内は出演し、興亜映画へ移った。
興亜では、同年、おなじく全勝にいた姓丸浩監督のトーキー作品『神戸事件』に出演、つづいて同社と松竹京都撮影所の提携大作、溝口健二監督の『元禄忠臣蔵』前篇(1941年)・後篇(1942年)に「奥田孫兵衛」役で出演したが、その後は出演記録が見当たらず、以降の消息や没年はわからない。
おもなフィルモグラフィ
[編集]- 神州天馬侠 第三篇 1928年 監督吉野二郎、原作吉川英治、脚本・撮影三木稔 ※「マキノ梅太郎」名義
- 神州天馬侠 第四篇 1928年 監督吉野二郎、原作吉川英治、脚本・撮影三木稔 ※「マキノ梅太郎」名義
- 菩薩殺生剣 1936年 監督・脚本志波西果、原作伊藤大輔 ※全勝キネマ、主演
- 尾州三勇士 1941年 監督熊谷草弥、主演天津竜太郎 ※全勝キネマ
- 神戸事件 1941年 監督姓丸浩 ※興亜映画、主演
- 元禄忠臣蔵 前篇 監督溝口健二、主演河原崎長十郎 ※興亜映画・松竹京都撮影所提携、「奥田孫兵衛」役
- 元禄忠臣蔵 後篇 監督溝口健二、主演河原崎長十郎 ※興亜映画・松竹京都撮影所提携、「奥田孫兵衛」役
註
[編集]外部リンク
[編集]- Ryû Ôkouchi - IMDb
- 大河内龍, マキノ梅太郎 後者は12.13.のみ - 日本映画データベース