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姓丸浩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
せいまる ひろし
姓丸 浩
生年月日 1904年
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 京都府京都市上京区西陣五番町
職業 映画監督
ジャンル 劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1920年代 - 1941年
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姓丸 浩(せいまる ひろし、1904年 - 1940年代)は、日本の映画監督である[1][2][3][4][5]

人物・来歴

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1904年明治37年)、京都府京都市上京区西陣五番町に生まれる[1]

1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博トーキー(映音式)のための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、姓丸はこれに参加、翌1936年(昭和11年)1月、同社がその陣容を発表した際に、「助監督部」として、のちに同社で監督に昇進する平尾善夫宮城文夫らとともに名を連ねた[6]。同社では、2歳下の松田定次(1906年 - 2003年)に師事する[1]。同年10月23日に公開された、大内弘月澄江主演による『流れ雲三度笠』(共同監督マキノ正博)で、早くも監督に昇進する[3][4]。同社は1937年(昭和12年)4月に解散、姓丸は、師匠の松田定次、広瀬五郎、宮城文夫らとともに永田雅一所長率いる新興キネマ京都撮影所に移籍したが[6]、翌1938年(昭和13年)には、奈良あやめ池市川右太衛門プロダクションの撮影所を使用する全勝キネマに移籍、同社で26作もの映画を監督する[1][3][4]

1941年(昭和16年)には、同社は松竹傘下に吸収されて興亜映画となり、あやめ池撮影所は閉鎖、姓丸は、興亜に移籍した[1][3][4]。興亜の使用する撮影所は、かつてのマキノトーキー撮影所(現在の松竹京都撮影所)であった。

1940年代のいずれかの時点で、に病を得て死去した[1]。満40歳前後の没。

フィルモグラフィ

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特筆以外すべてクレジットは「監督」である[3][4]。公開日の右側には特筆する職能のクレジット[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[5]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

マキノトーキー製作所

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すべて製作・配給は「マキノトーキー製作所」である[3][4]。すべて「トーキー」である[3][4]

全勝キネマ

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すべて製作・配給は「全勝キネマ」である[3][4]。すべてサイレント映画に活動写真弁士の解説を録音した「解説版」である[3][4]

興亜映画

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すべて製作は「興亜映画」、配給は「松竹キネマ」である[3][4]。すべて「トーキー」である[3][4]

脚注

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  1. ^ a b c d e f キネマ旬報社[1976], p.226.
  2. ^ 姓丸浩jlogos.com, エア、2012年12月18日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 姓丸浩日本映画データベース、2012年12月18日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 姓丸浩、日本映画情報システム、文化庁、2012年12月18日閲覧。
  5. ^ a b c d 姓丸浩東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月18日閲覧。
  6. ^ a b マキノ[1977]、p.338-374.

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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