大沼貞蔵
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大沼 貞藏(おおぬま ていぞう、旧姓:吉田、1893年〈明治26年〉1月23日 - 1974年〈昭和49年〉8月1日)は、日本の医師。医学博士。(社)山形県医師会会長〈初代〉。(社)山形市医師会会長〈初代、第5代〔法人化以前からの通算では第7代、第11代〕〉。山形市医師連盟委員長〈初代〉。山形市立病院済生館館長〈第10代〉。大日本帝国陸軍軍医大尉。
来歴
[編集]- 1893年(明治26年)1月23日 - 東村山郡金井村の父:吉田作治郎と母:リヲの五男(8人兄弟の末子)として生まれる。
- 1912年(明治45年)3月29日 - 山形縣立山形中學校(後の山形県立山形東高等学校)卒業。在学中は首席を通した。
- 1913年(大正2年)1月25日 - 大沼保吉の長女:セン(当時15歳)と結婚し婿養子となる。
- 1915年(大正4年)7月30日 - 仙台第二高等学校(後の東北大学教養学部)卒業
- 1919年(大正8年)11月30日 - 東京帝国大学医学部卒業
- 1922年(大正11年)3月29日 - 妻:セン死去(24歳没)。
- 1923年(大正12年)10月30日 - 東京帝国大学医学部病理学研究室勤務
- 1924年(大正13年)9月20日 - 千葉医科大学講師就任
- 1925年(大正14年)8月1日 - 大沼保吉の次女:クラ(当時18歳)と再婚。
- 1928年(昭和3年)4月14日 - 東京帝国大学医学部島薗内科勤務
- 1929年(昭和4年)7月17日 - 医学博士号(東京帝国大学)授与
- 1931年(昭和6年)3月4日 - 南満州鉄道入社
- 1935年(昭和10年)7月20日 - 撫順病院内科医長就任
- 1938年(昭和13年)4月1日 - 牡丹病院院長就任
- 1940年(昭和15年)4月 - 日本に帰国。
- 4月23日 - 済生館副館長兼第一内科医長就任
- 1942年(昭和17年)9月 - 応召、大日本帝国陸軍軍医中尉任官。
- 1944年(昭和19年)9月7日 - 山形市立病院済生館第10代館長就任(1952年(昭和27年)6月30日まで)
- 1945年(昭和20年)9月 - 応召から帰還。
- 1947年(昭和22年)10月7日 - (社)山形市医師会初代会長就任(1949年(昭和24年)3月31日まで)
- 1948年(昭和23年)3月 - 日本医師会代議員就任
- 1952年(昭和27年)6月30日 - 柳町に「大沼内科医院」開業。
- 1956年(昭和31年)4月1日 - (社)山形市医師会第5代会長就任(1968年(昭和43年)3月31日まで)
- 1963年(昭和38年)1月12日 - 政治団体の山形市医師連盟が結成され初代委員長就任
- 1966年(昭和41年)6月 - 山形市医師会史編纂委員会委員長就任
- 1974年(昭和49年)8月1日 - 死去。満81歳没。
栄典・受賞
[編集]その他の役職
[編集]- 山形市学校医会長
著作・出版
[編集]- 著書
- 『句集雁来紅』 1963年 大沼貞蔵(著・出版)
- 『癌の知識』 1965年 大沼貞蔵(著) 山形県学校保健連合会(出版)
- 編纂
- 『大沼保吉翁回想録』 1963年6月 後藤嘉一(編著) 大沼勘四郎、大沼義之助、大沼貞蔵(編纂委員)
- 『中央医会会史』 1969年4月 大沼貞蔵(編) 山形市医師会史編纂委員会(出版)
- 博士論文
- 『交感神経系統の正常並に病理組織学的研究』 東京帝国大学
親族
[編集]- 養父:大沼保吉 - 第10代山形市長、寿虎屋酒造8代目経営者、千代寿虎屋酒造初代経営者
- 養母:大沼セイ - 保吉の後妻。寿虎屋酒造7代目経営者・大沼金治の三女
- 前妻:大沼セン - 保吉の長女
- 後妻:大沼クラ - 保吉の次女
- 長男:大沼貞雄 - 医師、医学博士、(社)山形市医師会会長
- 義兄:大沼勘四郎 - 寿虎屋酒造9代目経営者
- 義弟:大沼義之助 - 千代寿虎屋酒造2代目経営者
- 義甥:大沼保義 - 千代寿虎屋酒造3代目経営者
脚注
[編集]参考資料
[編集]- 『大沼保吉翁回想録』 1963年6月 後藤嘉一(編著) 大沼保吉翁回想録編纂委員会(出版)
- 『社団法人山形県医師会史』 2004年3月 山形県医師会(出版)
- 『山形市医師会史:後編』 1980年10月 山形市医師会(出版)
- 『山形市医師会外史五十年のあゆみ』 1998年3月 山形市医師会(出版)
- 『済生館史』 後藤嘉一(著) 山形市立病院済生館(出版)
- 『山形市立病院済生館思い出の記』 1993年10月 山形市立病院済生館(編纂・出版)