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大溝勇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大溝 勇(おおみぞ いさむ[1]1889年明治22年)7月4日 - 1928年昭和3年)6月17日)は、日本造園家。明治神宮内苑の造営にかかわり、関東大震災復興小公園の設計にも関与した。

来歴

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静岡県君沢郡中郷村(現・三島市)に生まれる[1]。1899年に中郷尋常小学校を卒業して上京し、富士見尋常高等小学校に入学した[要出典]。1907年に旧制第一高等学校理農科に進学。1911年7月に卒業(卒業時点では「農科」[2])、同年9月に東京帝国大学農科大学林学科に入学した(入学宣誓式は10月14日に挙行[3])。大学では本多静六に学ぶ。

1914年7月に大学を卒業すると[4]翌年4月30日に内務大臣所管の明治神宮造営局(内苑造営工事専門の国による部局)林苑課に就職した。[要出典]林苑課では、明治神宮内苑の植樹造営に従事した[1]。この間、大学卒業から3か月後に結婚している[要出典]

1921年12月10日付で北海道庁技師に任じられる[5]。単身赴任し、翌1922年2月に産業部農務課勤務となる。1923年1月に北海道庁拓殖部林業課へ異動した。

関東大震災後の1924年3月13日に北海道庁を依願免官し[6]東京市公園課技術掛長に転じる[7]。俸給は課長の井下清と同額だった[要出典]。井下は欧米の公園事情視察のため外遊し[8]その間は筆頭技師を務めて52か所の帝都復興小公園の設計・計画に従事した。[要出典]しかし、在職中の1928年6月17日に、肺炎のため[要出典]死去した(満38歳没)[9]。葬儀は青山葬儀所で営まれた[9]

脚注

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  1. ^ a b c 金子信尚 編『北海道人名辞書 再版』北海民論社、1923年、96頁https://dl.ndl.go.jp/pid/936734/1/81 
  2. ^ 官報1911年7月3日、p.49
  3. ^ 『官報』1911年10月19日、p.370
  4. ^ 東京帝国大学(編)『東京帝国大学一覧 從大正5年 至大正6年』東京帝国大学、1917年、p.285
  5. ^ 『官報』1921年12月12日、p.269
  6. ^ 『官報』1924年3月15日、p.202
  7. ^ 会員消息(「協会記事」内)」『庭園』第6巻第6号、日本庭園協会、1924年6月、166頁。 (リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション
  8. ^ 小坂立夫、樋渡達也、布施六郎「〔第4回〕上原敬二賞受賞者に聞く〔含 略歴・肖像〕小坂立夫氏に聞く」『造園雑誌』第50巻第4号、日本造園学会、1987年3月、285-289頁。  小坂は井下の外遊中に大溝に紹介されて運よく東京市に採用されたという(286頁)。
  9. ^ a b 大溝勇氏の訃(「協会記事」内)」『庭園』第10巻第5号、日本庭園協会、1928年6月、54頁。  (リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)

関連文献

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  • 中澤滋子・青木洋子『会えなかった祖父の面影「明治神宮の森」に生きる大溝勇』ナカザワ、2020年(非売品)

外部リンク

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