大矢知氏
大矢知氏(おおやちし)は、日本の稀少苗字。三重県四日市市大矢知地区をルーツとする。北勢四十八家の1つで大矢知城主。守護被官の一人。伊勢国朝明郡大矢知村が起源(ルーツ)である。清和天皇の子孫で源姓を賜った氏とされ(清和源氏)、他説では伊勢平氏の流れをくむ富田信士平家資から続く富田家の総本家ともいうべき家柄の氏とされる南部氏族。三重県四日市市に多数存在する名字である。
歴史
[編集]- 大矢知氏は伊勢国の小守護代であった。文明十六年(1484年)伊勢国の守護であった一色義春の死によって一色氏は伊勢守護職を失い、大矢知氏も小守護の座を失う。大矢知城址は、四日市市大矢知町字大城であったが配水場建設に伴い消滅した。『大矢知氏』は伊勢国の守護被官の一人であった。大矢知家の当主は大矢知遠江守。織田信長の伊勢平定後は柴田勝家の家臣となる。大矢知姓の全国順位は15675位。日本国内の人数は約400人と推定される。三重県の苗字の順位では1221位。三重県内の人数は約200人と推定される。四日市市内では大矢知苗字の住民が大矢知地区より分離され八郷地区に編入された山分地域に多く居住している。
史料
[編集]大矢知氏は伊勢国の守護である一色義直・一色義春段階の、小守護代として一族の名前が出てくる[1]。
史料上の所見は、長禄二年(1458年)7月4日の「守護代石河道道悟尊行状」であり、これは守忠名内公文跡を永源寺含空院に渡す幕命の執行を、四郎左衛門入道に命じたものである[2]。
寛正四年(1463年)12月、内宮は守護代石河道悟に拿捕された桑名船盛丸に積まれていた上分米120石の返還を求める庁宣を出して、「大屋知佐渡入道」に一禰宜藤波氏経の書状を送った。佐渡入道は石河道悟のことであるが、氏経は大矢知氏と混同しており、内宮が人名などを正確に把握していない事がうかがえる[3]。
文明12年(1480年)4月に守護に返り咲いた一色義春の守護代として石河直清が入国した。これ以後伊勢神宮と守護方が警固をめぐり激しく対立、小守護代大矢知氏は、これに絡んで大矢知氏の名前が記述されている。同年六月に内宮から新警固停止を求める書状と品物を送られたのは、宗左衛門尉吉忠であった。
翌年8月には守護代直清と大矢知正房が、外宮一禰宜度会朝敦に書状を送り、答志島警固の正当性を主張した。文明14年2月伊勢神宮が警固廃止を求める使者を派遣する際、土産を送るべき人物として列挙するなかに藤二郎・宗左衛門の名前が出る、宗左衛門は吉忠、藤二郎は正房を想定される。この時期兵庫安忠が員弁郡境新関の通行を近江四本商人に保障している。文明16年の一色義春の死去によって、一色氏は伊勢国守護の座を失う。小守護代大矢知氏の動向が不明になるのは、同じ時期で軌を一にしてからである。大矢知氏の城館跡と伝えられるのが、四日市市内の大矢知町大城である。朝明川右岸の垂坂丘陵の北端の標高60mに位置したが、朝明配水場の建設に伴って大矢知城の考古学上の遺構は消滅した[4]。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ 『四日市市史』第16巻, p. 486, 10行目.
- ^ 『四日市市史』第16巻, p. 486, 10~12行目.
- ^ 『四日市市史』第16巻, p. 486, 12~15行目.
- ^ 『四日市市史』第16巻, p. 487.