大石氏 (地下家)
大石氏 | |
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氏姓 | 大石宿禰 |
始祖 | 称・武内宿禰 |
出自 | 皇別 |
種別 | 皇別 |
本貫 | 近江国栗太郡大石? |
著名な人物 | 大石業弘 |
後裔 |
堀川氏(地下家) 姉小路氏(地下家) |
凡例 / Category:氏 |
大石氏(おおいしし)は「大石」を氏の名とする氏族。姓は宿禰。
概要
[編集]『地下家伝』には「本武内宿禰系中冒大石姓」とあり、武内宿禰の末裔を称していたことがわかる[1]。
奈良時代の大石氏
[編集]神亀3年(726年)の「山背国愛宕郡雲下里計帳」には、3歳の大石主寸百嶋、大石主寸広田売、大石主寸小養売、大石主寸真養売、大石主寸広椅売の名前が見える[2]。村主姓の大石氏は『坂上系図』所引姓氏録逸文(阿智王条)に「阿智王、誉田天皇の御世に、本国の乱を避けて、母、並に妻子、母の弟、千興徳、七姓の漢人等を率て帰化り。(中略)阿智使主、奏して言さく、臣、入朝の時に、本郷の人民、往に離れ散れり。今聞くに、あまねく高麗、百済、新羅等の国に在りと。望み請ふらくは、使を遣して喚び来さしめむとまうす。天皇、即ち使を遣して喚ばしめたまふ。大鷦鷯天皇(仁徳)の御世に、落を挙つて随ひ来く。今の(中略)大石村主(中略)等は、是、其の後なり。」とあり、佐伯有清は近江国栗太郡大石を本拠地であると推定しているが、宿禰姓の大石氏との関連は不明である[3]。
天平6年(734年)には造弩生・大石村主大国の名前が見える[4]。
天平9年(737年)には因幡国の史生として大初位上・大石村主広道の名前が見える[5]。
天平10年(738年)には美濃少目を務める大石真人の名前が見える[6]。
天平11年(739年)には4月9日には大石毛人が写経をしている[7]。
天平18年(746年)12月には大石蓑万呂の名前が見える[8]。
天平20年(747年)の「写一切経用紙検注帳」には大石広万呂、写書所解には大石諸上の名前が見える[4]。
天平感宝元年(749年)6月24日には史生従七位下の大石村主大鯖が署名している[9]。
天平勝宝2年(750年)8月の「経師上日帳」には大石村主諸甘の名前が見える[10]。
天平勝宝4年(752年)には大石飽田万呂や皷吹司・外従五位下の大石某の名前が確認できる[11]。
天平勝宝6年(754年)には大石広山の名前が確認できる[11]。
天平神護元年(765年)には大石船主の名前が確認できる[12]。
また、天平勝宝8年(754年)から天平宝字6年(762年)にかけて左京人で従八位上の大石(能歌)阿古麻呂や大石堅魚麻呂が見える[13][14]。
時期は不明だが、史生で土師氏の舎人を務めた大石船□がいた[15]。
平安時代の大石氏
[編集]延暦23年(803年)6月20日には治部史生・大石豊主が、承和8年(841年)1月16日には筑前少目大石村主田折麿が、貞観12年(870年)4月23日には大石村主且山が、寛平9年(897年)3月7日には出羽国司を務める正六位上・大石漢人益德が確認できる[16][17]。
延長6年(928年)1月21日には左兵衛少尉・大石峯吉が確認できる[18]。
天慶9年(946年)8月8日には太政官史生・大石忠利が確認できる[19]。
天暦10年(956年)5月1日には左大史を務めた大石宿禰(名不詳)が確認できる[20]。
康保4年(967年)10月28日には左史生・大石清廉が確認でき、翌3月7日には宣旨で「直撰国史所事」を任じられている[19]。
安和2年(969年)7月8日には「大膳官人代」を務めている大石某がいる[19]。
天禄3年(971年)7月7日には左衛門志・大石富門が見える[19]。
寛弘7年(1010年)2月20日には大石保近の名前が確認できる[19]。
長和3年(1014年)5月16日、将曹・大石奉吉の名前が確認できる[19]。
治安3年(1023年)11月14日、には左将曹(府生)の大石久遠が見える[19]。
長元7年(1034年)2月8日には播磨国餝東郡に大石頼安が住んでいたという[19]。
長元9年(1036年)5月27日には、左近府生の大石久堅の名前が見える[19]。
長治元年(1104年)6月9日には大石為国の名前が見える[19]。
天承2年(1132年)8月には大石光安の名前が確認できる[19]。
仁安3年(1168年)4月7日から承安4年(1174年)11月21日にかけて大石則直(左近府生則直・将曹則直・左近将曹則直・左近官人則直)が活動している[19]。
元暦元年(1184年)11月21日から建久元年(1190年)1月3日にかけて大石久直(左近官人久直・召府庁頭久直・左近将曹久直)が活動している[19]。
他にも、12世紀には左近庁頭・大石久末が確認できる。「大石氏系図」によると祖は大石久遠であるとされ、久方-近方・・・末行(久方の子)-久末・・・光方(父は楽人助種)と続いたとされる[21]。
鎌倉時代以降の大石氏
[編集]建久9年(1198年)2月6日から建仁2年(1202年)3月21日にかけて大石久景(府生大石久景・庁頭府生久景・左近府生久景・左近将曹大石久景)が活動している[19]。
建永2年(1207年)6月28日には、正六位上で将曹を務める大石宿禰(名不詳)が確認できる[22]。
貞応元年(1222年)12月11日には大石是友の私領を相伝した大石友満の名前が確認できる[23]。
貞永元年(1232年)12月5日には左近将曹・大石久綱の名前が確認できる[23]。
天福元年(1233年)6月18日には大石常末が自領を売却している[23]。
弘長2年(1262年)12月には出納左近衛府生の大石某が洞院実雄の下で活動している[23]。
文永5年(1268年)3月30日には将曹大石某が確認できる[23]。
永仁3年(1295年)9月15日には大石助光の名前が確認できる[23]。
文保2年(1318年)には大石国吉の名前が確認できる[23]。
検非違使を務めた大石氏
[編集]代々検非違使を務めた家系は、大石業弘を祖とする。業弘は従五位下に叙され検非違使、御蔵出納、隠岐守、摂津守、右衛門尉を歴任したという。業弘の子は大石茂弘、茂弘の子は大石藤弘で、藤弘は徳治元年(1306年)2月11日には官史生として見え、正和3年(1314年)1月28日に正六位上・右衛門府生、検非違使に叙任されている。藤弘からは大石親弘[注釈 1]-大石時弘[注釈 2]-大石守弘-大石嗣弘-大石延弘-大石氏弘-大石季弘-大石長弘と続き、長弘からは堀川氏を称した[1]。
また、庶流の大石氏には、大石時弘-大石員弘─大石是弘─大石夏弘─大石祐弘─大石泰弘-大石国弘-大石豊弘(以降堀川氏)の系統がある[1]。
『地下家伝』に見えない大石氏としては、
- 応安4年(1371年)1月14日に名前が見える大石範弘
- 応永33年(1423年)3月27日に庁頭、正長元年(1428年)7月28日に検非違使・右衛門尉であった大石叙弘
- 正長2年(1429年)8月29日に志(省庁は不明)であった大石惟弘
がいる[23]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 三上景文『地下家伝 第8-13(日本古典全集 ; 第6期)[1]』(日本古典全集刊行会、1937年)
- ^ 東大史料編纂所データーベース「奈良時代古文書フルテキストデータベース [2]」
- ^ 佐伯有清『新撰姓氏録の研究』(吉川弘文館、1962年)
- ^ a b 東大史料編纂所データーベース「奈良時代古文書フルテキストデータベース [3]」
- ^ 東大史料編纂所データーベース「奈良時代古文書フルテキストデータベース [4]」
- ^ 東大史料編纂所データーベース「奈良時代古文書フルテキストデータベース [5]」
- ^ 東大史料編纂所データーベース「奈良時代古文書フルテキストデータベース [6]」
- ^ 東大史料編纂所データーベース「奈良時代古文書フルテキストデータベース [7]」
- ^ 東大史料編纂所データーベース「奈良時代古文書フルテキストデータベース [8]」
- ^ 東大史料編纂所データーベース「奈良時代古文書フルテキストデータベース [9]」
- ^ a b 東大史料編纂所データーベース「奈良時代古文書フルテキストデータベース [10]」
- ^ 東大史料編纂所データーベース「奈良時代古文書フルテキストデータベース [11]」
- ^ 東大史料編纂所データーベース「奈良時代古文書フルテキストデータベース [12]」
- ^ 東大史料編纂所データーベース「奈良時代古文書フルテキストデータベース [13]」
- ^ 東大史料編纂所データーベース「奈良時代古文書フルテキストデータベース [14]」
- ^ 東大史料編纂所データーベース「古文書フルテキストデータベース[15]」
- ^ 東大史料編纂所データーベース「平安遺文フルテキストデータベース[16]」
- ^ 東大史料編纂所データーベース「編年史料カード(古代関係)データベース[17]」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 東大史料編纂所データーベース「横断検索[18]」
- ^ 東大史料編纂所データーベース「編年史料(古代)編纂支援資源化データベース MIDOH[19]」
- ^ 中原俊章『中世公家と地下官人』(吉川弘文館、1987年)
- ^ 東大史料編纂所データーベース「編年史料(古代)編纂支援資源化データベース MIDOH[20]」
- ^ a b c d e f g h 東大史料編纂所データーベース「横断検索[21]」