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洞院実雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
洞院実雄
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 承久元年(1219年
死没 文永10年8月16日1273年9月28日
改名 実雄→浄覚(法号)
別名 山階左大臣
官位 従一位左大臣
主君 四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇
氏族 西園寺家洞院家
父母 父:西園寺公経、母:平親宗の娘
兄弟 西園寺掄子西園寺実氏一条実有実雄、道融、四辻実藤西園寺実材三条実親室、女子、西園寺成子、実意、実助、尊恵、実顕、行安、慈助、実勝、西園寺嘉子、西園寺公子
正室:栄子(公審の娘)
継室:一条頼氏の娘藤原蔵子(藤原隆房の娘)
後嵯峨院但馬局(賀茂能直の娘)
主殿司瑠璃の娘
公宗小倉公雄、守恵、佶子愔子公守季子、禖子、慈順、公尹、公方、公風、定勝、実修、公潤、公春、近衛基平室、鷹司基忠室、西園寺公蔭室、三条公親室、実子
特記
事項
後宇多伏見花園天皇の外祖父
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洞院 実雄(とういん さねお)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿太政大臣西園寺公経の子。官位従一位左大臣山階左大臣と号す。洞院家の祖。

娘3人がそれぞれ3人の天皇(亀山天皇後深草天皇伏見天皇)の妃となって権勢を誇った。娘たちはいずれも皇子を産み、それぞれ即位したことから、3人の天皇(後宇多天皇、伏見天皇、花園天皇)の外祖父となった。

経歴

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以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

嘉禄3年(1227年)2月1日、叙爵。同年3月4日、侍従に任ぜられる。安貞3年(1229年)1月30日、従五位上に昇叙。同年4月18日、左少将に任ぜられる。寛喜2年(1230年)1月24日、備後介を兼ねる。寛喜3年(1231年)1月5日、正五位下に昇叙。文暦元年(1234年)12月21日、左中弁に任ぜられる。左少将は元の如し。文暦2年(1235年)1月23日、加賀権介を兼ねる。同月28日、従四位上に昇叙。同年2月6日には禁色を許され、閏6月11日には左宮城使に補される。

嘉禎2年(1236年)2月30日、左中弁を止め左中将に任ぜられ蔵人頭となる。同年5月6日、正四位下に昇叙。同年12月18日、従三位に叙される。中将は元の如し。

嘉禎3年(1237年)1月24日、土佐権守を兼ねる。同年12月25日、参議に任ぜられる。嘉禎4年(1238年)3月7日、右衛門督検非違使別当を兼ねる。同月29日、正三位に昇叙。同年7月20日、権中納言に昇進し、8月28日には右衛門督と検非違使別当を辞した。暦仁2年(1239年)1月24日、皇后宮権大夫を兼ねるが、11月12日に皇后利子内親王が女院(式乾門院)となったために権大夫を止める。仁治元年(1240年)10月24日、従二位に昇叙。仁治3年(1242年)3月7日、権大納言に昇進。仁治4年(1243年)2月2日、正二位に昇叙。寛元2年(1244年)8月29日、父・公経が薨去したために喪に服す。同年11月25日に復任。

正嘉元年(1257年)11月26日、内大臣に任ぜられる。正嘉2年(1258年)11月1日、右大臣に転任し春宮傅を兼ねる。弘長元年(1261年)3月27日、左大臣に転任。弘長2年(1262年)1月5日、従一位に昇叙。弘長3年(1263年)3月20日、上表して左大臣を辞した。文永10年(1273年)8月4日、所労危急のため出家し、同月16日に薨去。

系譜

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尊卑分脈[1]による。

脚注

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参考文献

[編集]
先代
-
洞院家当主
初代
次代
洞院公守