嘉禄
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改元
[編集]出典
[編集]「博物志」の「承二皇天嘉禄一」より。
備考
[編集]この改元について、『吾妻鏡』は疱瘡流行に伴う写経記事の翌日(元仁2年5月2日)条に改元の詔書が届いたことが記されていることから、通常は疱瘡によると解されている。
だが、改元直前に藤原定家が安倍泰俊に語ったところによれば、事の発端は「元仁」改元を知った武家(鎌倉幕府)が「不快」の念を伝えてきたことがきっかけであったとされ(『明月記』嘉禄元年4月15日条)、実際に改元されると定家は「改元を行っても政治を改めなければ意味がない」と批判し、更に「嘉禄」が「軽(かろ)く」に通じると不満を示している(同4月20日・21条)[1]。
嘉禄期におきた出来事
[編集]- 元年
- 2年
死去
[編集]- 元年
西暦との対照表
[編集]※は小の月を示す。
嘉禄元年(乙酉) | 一月 | 二月 | 三月※ | 四月 | 五月※ | 六月 | 七月※ | 八月 | 九月※ | 十月 | 十一月※ | 十二月 | |
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ユリウス暦 | 1225/2/9 | 3/11 | 4/10 | 5/9 | 6/8 | 7/7 | 8/6 | 9/4 | 10/4 | 11/2 | 12/2 | 12/31 | |
嘉禄二年(丙戌) | 一月※ | 二月 | 三月※ | 四月 | 五月※ | 六月 | 七月 | 八月※ | 九月 | 十月※ | 十一月 | 十二月※ | |
ユリウス暦 | 1226/1/30 | 2/28 | 3/30 | 4/28 | 5/28 | 6/26 | 7/26 | 8/25 | 9/23 | 10/23 | 11/21 | 12/21 | |
嘉禄三年(丁亥) | 一月 | 二月※ | 三月 | 閏三月※ | 四月 | 五月※ | 六月 | 七月※ | 八月 | 九月 | 十月※ | 十一月 | 十二月※ |
ユリウス暦 | 1227/1/19 | 2/18 | 3/19 | 4/18 | 5/17 | 6/16 | 7/15 | 8/14 | 9/12 | 10/12 | 11/11 | 12/10 | 1228/1/9 |
脚注
[編集]- ^ 北爪真佐夫「元号と武家」『札幌学院大学人文学会紀要』第68巻、札幌学院大学人文学会、2000年9月、1-32頁、CRID 1050859370519001728、hdl:10742/00003574、ISSN 0916-3166。
《所収》北爪真佐夫『文士と御家人 : 中世国家と幕府の吏僚』青史出版、2002年。ISBN 978-4-921145-13-2。国立国会図書館書誌ID:000003067831。