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北条政子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ほうじょう まさこ/たいらのまさこ

北条政子/平政子
北条政子木像(安養院所蔵)
生誕 保元2年(1157年
死没 嘉禄元年7月11日1225年8月16日))
国籍 日本
配偶者 源頼朝
子供 頼家実朝大姫三幡
父・北条時政
母・伊東祐親の娘
親戚 北条義時(同母弟)、阿波局(妹)、北条時子(同母妹)、稲毛女房(異母妹)
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北条 政子(ほうじょう まさこ、平政子[1]たいらの まさこ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の御台所。周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となった。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名は安養院(あんにょういん)。頼朝が亡くなった後、征夷大将軍となった頼家、実朝が相次いで暗殺された後は、鎌倉殿としてから招いた幼い三寅(後の藤原頼経)の後見となって幕府の実権を握り、世に尼将軍(あましょうぐん)と称された。

生涯

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頼朝との婚姻

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伊豆国豪族北条時政の長女。母は未詳だが、北条時子の同母姉妹とみられている。坂井孝一は、真名本『曾我物語』巻五に「鎌倉殿の御台盤所」(政子)の母が曾我兄弟の「父方の伯母」と書かれていることから、政子の母も義時を生んだ伊東祐親の娘としている[2]。また、時政の正室とされる牧の方も7人の子女を産んだとされており、彼女よりも前に娶った伊東祐親の娘が時房以前の8人の子女を生んだ可能性があるとしている[3][注 1]。ただし真名本『曾我物語』巻二では伊東祐親の娘は4人と書かれており、その嫁ぎ先には北条時政は含まれていない。また吉川本『吾妻鏡嘉禄元年(1225年)7月11日条には政子は「前大将軍後室、二代将軍母儀也」と書かれており、当時は源頼朝の後室と認識されていた可能性があるので、真名本『曾我物語』巻五に書かれた「鎌倉殿の御台盤所」は政子のことではない可能性がある。また、保立道久はこの「父方の伯母」を曾我兄弟の父である河津祐泰(祐通)の伯母を指すと解釈して、伊東祐親の姉妹が北条時政に嫁いで政子や義時を生んだとしている[5]

二人はこの石に腰掛けて結ばれたとされる。頼朝・政子腰掛石(伊豆山神社

伊豆の在庁官人であった時政は、平治の乱で敗れ同地に流されていた頼朝の監視役であったが、時政が大番役のため在京中の間に政子は頼朝と恋仲になってしまう。頼朝との婚姻は治承元年(1177年)の頃と推定される[注 2]。『吾妻鏡』によると時政はこの婚姻には大反対であったという。同書にはこの時のことについて、後年、源義経の愛妾の静御前が頼朝の怒りを受けたときに、頼朝を宥めるべく政子が語った言葉で「暗夜をさ迷い、雨をしのいで貴方の所にまいりました」と述べたと記されている[要出典]。しかし最終的に時政は2人の婚姻を認めた。政子は、まもなく長女・大姫を出産する。北条氏は頼朝の重要な後援者となる。

なお、軍記物にはこの婚姻についての逸話がいくつか書かれている。『曽我物語』によると二人の馴れ初めとして、政子の妹(後に頼朝の弟・阿野全成の妻となる阿波局)が日月を掌につかむ奇妙な夢を見た。妹がその夢について話すと、政子はそれは禍をもたらす夢であるので、自分に売るように勧めた。当時、不吉な夢を売ると禍が転嫁するという考え方があった。妹は夢を売り、政子は代わりに小袖を与えた。吉夢と知って「夢買い」をしたのである。また『源平盛衰記』には次の内容の記載がある。頼朝と政子の関係を知った時政は平家一門への聞こえを恐れ、政子を伊豆目代山木兼隆と結婚させようとした。山木兼隆は元は流人だったが、平家の一族であり、平家政権の成立とともに目代となり伊豆での平家の代官となっていた。政子は輿入れさせられようとするが、屋敷を抜け出した政子は山を一つ越え、頼朝の元へ走ったという。二人は伊豆山権現(伊豆山神社)に匿われた。政子21歳のときである。伊豆山は僧兵の力が強く目代の山木も手を出せなかったという。しかしながら山木兼隆の伊豆配流は治承3年(1179年)の事であり、政子との婚姻話は物語上の創作とみるのが妥当と思われる。

治承4年(1180年)、以仁王源頼政と平家打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。伊豆の頼朝にも以仁王の令旨が届けられたが、慎重な頼朝は即座には応じなかった。しかし計画が露見して以仁王が敗死したため、頼朝にも危機が迫り挙兵せざるを得なくなった。頼朝は目代・山木兼隆の邸を襲撃して討ち取るが、続く石橋山の戦いで惨敗、政子の長兄宗時が討死。政子は伊豆山に留まり、頼朝の安否を心配して不安の日々を送る。

頼朝は北条時政、義時とともに安房国に逃れて再挙し、東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がり、源氏ゆかりの地である鎌倉に入り居を定めた。政子も鎌倉に移り住んだ。頼朝は富士川の戦いで勝利し、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧した。頼朝は東国の主となり鎌倉殿と呼ばれ、政子は御台所と呼ばれるようになった。

御台所

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養和2年(1182年)初めに政子は二人目の子を懐妊した。頼朝は三浦義澄の願いにより政子の安産祈願として、平家方の豪族で鎌倉方に捕らえられていた伊東祐親(時政の舅で義時の母方の祖父)の恩赦を命じた。祐親はこの赦免を恥として自害してしまう。『源平闘諍録』『曽我物語』などによると、頼朝は政子と結ばれる以前に祐親の三女(八重姫)と恋仲になり男子までなしたが平氏の怒りを恐れた祐親はこの子を殺し、頼朝と三女の仲を裂き他の武士と強引に結婚させてしまったという。ただし同時代史料や『吾妻鏡』など後世の編纂史料では確認できない。同年8月に政子は男子(万寿)を出産。後の2代将軍・源頼家である。

政子の妊娠中に頼朝は亀の前というを寵愛するようになり、近くに呼び寄せて通うようになった。これを時政の後妻の牧の方から知らされた政子は嫉妬にかられて激怒する。11月、牧の方の兄の牧宗親に命じて亀の前が住んでいた伏見広綱の邸を打ち壊す後妻打ち(うわなりうち)を行い、亀の前はほうほうの体で逃げ出した[11]。頼朝は激怒して牧宗親を詰問し、自らの手で宗親の髻(もとどり)を切り落とす恥辱を与えた。頼朝のこの仕打ちに時政が怒り、一族を連れて伊豆へ引き揚げる騒ぎになっている。政子の怒りは収まらず、伏見広綱を遠江国流罪にさせた。

政子の嫉妬深さは一夫多妻が当然だった当時の女性としては異例であった。頼朝は他の女性とも通じたが、政子を恐れて半ば隠れるように通っている。当時の貴族は複数の妻妾の家に通うのが一般的だが、有力武家も本妻の他に多くのを持ち子を産ませて一族を増やすのが当然だった。父・時政も複数の妻妾がおり、政子と腹違いの弟妹を多く産ませている。頼朝の父・源義朝も多くの妾がおり、祖父・源為義は子福者で20人以上もの子を産ませている。京都で生まれ育ち、源氏の棟梁であった頼朝にとって、多くの女の家に通うのは常識・義務の範疇であり、社会的にも当然の行為であったが、政子は容認できなかった。

その背景としては、貴種である頼朝の正室としては出自が低く、地位が不安定だったためと考えられる。頼朝は寿永元年(1182年)7月に兄・源義平の未亡人で源氏一族である新田義重の娘(祥寿姫)を妻に迎えようとしたが、政子の怒りを恐れた義重が娘を他に嫁がせたため実現しなかった。政子が亀の前の邸を襲撃させて実力行使に出るのは、この4ヶ月後である。

寿永2年(1183年)、頼朝は対立していた源義仲との和睦条件として義仲の嫡子・義高と頼朝と政子の長女・大姫の婚約が成立した。義高は婿という名目の人質として鎌倉へ下る。義高は11歳、大姫は6歳前後であったが、幼いながらも大姫は義高を慕うようになる。

義仲は平家を破り、頼朝より早く入京した。しかし義仲は京の統治に失敗し、平家と戦って敗北、さらに後白河法皇とも対立した。元暦元年(1184年)、頼朝は弟の源範頼義経を派遣して義仲を滅ぼした。頼朝は禍根を断つべく鎌倉にいた義高の殺害を決めるが、侍女達から漏れ聞いた大姫が義高を鎌倉から脱出させる。激怒した頼朝の命により堀親家がこれを追い、義高は親家の郎党である藤内光澄によって斬られた。大姫は悲嘆の余り病床につく。政子は憤り、親家の郎党の不始末のせいだと強く迫り、頼朝はやむなく藤内光澄を晒し首にしている。その後大姫は心の病となった。政子は快癒を願ってしばしば寺社に参詣するが、立ち直ることはなかった。

範頼と義経は一ノ谷の戦いで平家に大勝し、捕虜になった平重衡が鎌倉に送られてきた。頼朝は重衡を厚遇し、政子もこの貴人を慰めるため侍女の千手の前を差し出している。重衡は後に彼が焼き討ちした東大寺へ送られて斬られるが、千手の前は重衡の死を悲しみ、ほどなく死去している。

範頼と義経が平家と戦っている間、頼朝は東国の経営を進め、政子も参詣祈願や、寺社の造営式など諸行事に頼朝と同席している。元暦2年(1185年)、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした。

平家滅亡後、頼朝と義経は対立し、挙兵に失敗した義経は郎党や妻妾を連れて都を落ちる。文治2年(1186年)、義経の愛妾の静御前が捕らえられ、鎌倉へ送られた。政子は白拍子の名手である静に舞を所望し、渋る静を説得している。度重なる要請に折れた静は鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを披露し、頼朝の目の前で「吉野山峯の白雪ふみ分て 入りにし人の跡ぞ恋しき 」「しづやしづしずのをたまきをくり返し 昔を今になすよしもがな 」と義経を慕う歌を詠った。これに頼朝は激怒するが、政子は流人であった頼朝との辛い馴れ初めと挙兵のときの不安の日々を語り「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません」ととりなし、頼朝は怒りを鎮めて静に褒美を与えた。

政子は大姫を慰めるために南御堂に参詣し、静は政子と大姫のために南御堂に舞を納めている。静は義経の子を身ごもっており、頼朝は女子なら生かすが男子ならば禍根を断つために殺すよう命じる。静は男子を生み、政子は助命を願うが許されず、由比ヶ浜に遺棄された。政子と大姫は静を憐れみ、京へ帰る静と母の磯禅師に多くの重宝を与えた。

同年、政子は次女三幡を産んだ。政子の妊娠中に頼朝はまたも大進局という妾のもとへ通い、大進局は頼朝の男子(貞暁)を産むが、政子を憚って出産の儀式は省略されている。大進局は政子の嫉妬を恐れて身を隠し、子は政子を恐れて乳母のなり手がないなど、人目を憚るようにして育てられた。

奥州へ逃れた義経は文治5年(1189年)4月、藤原泰衡に攻められ自害した。頼朝は奥州征伐のため出陣する。政子は鶴岡八幡宮にお百度参りして戦勝を祈願した。頼朝は奥州藤原氏を滅ぼして、鎌倉に凱旋する。建久元年(1190年)に頼朝は大軍を率いて入京。後白河法皇に拝謁して右近衛大将に任じられた。

建久3年(1192年)、政子は男子(千幡)を産んだ。後の三代将軍・源実朝である。その数日前に頼朝は征夷大将軍に任じられている。同年、大進局が産んだ貞暁は7歳になった時、政子を憚って出家させるため京の仁和寺へ送られた。出発の日に頼朝は大進局と貞暁のもとへ密かに会いに訪れている。

建久4年(1193年)、頼朝は富士の峯で大規模な巻狩りを催した。頼家が鹿を射ると喜んだ頼朝は使者を立てて政子へ知らせるが、政子は「武家の跡取が鹿を獲ったぐらい騒ぐことではない」と使者を追い返している。政子の気の強さを表す逸話であるが、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされた事を人々に認めさせる効果を持ち、そのため頼朝は喜んだのだが、政子にはそれが理解できなかったとする解釈もなされている[12]。一方で、政子の発言は頼家を貶めるための『吾妻鏡』の曲筆で、実際にはそのような発言はなかったとする説もある[13]。この富士の巻狩りの最後の夜に曾我兄弟が父の仇の工藤祐経を討つ事件が起きた(曾我兄弟の仇討ち)。その後頼朝が鎌倉に帰還すると、範頼が頼朝の不興を買い伊豆に流される事件が起きている。『保暦間記』によると、鎌倉では頼朝が殺されたとの流言があり、政子は大層心配したが鎌倉に残っていた範頼が「源氏にはわたしがおりますから御安心ください」と政子を慰めたため、鎌倉に帰った頼朝がこれを聞いて猜疑にかられたためとしている。

大姫は相変わらず病が癒えず、しばしば床に伏していた。建久5年(1194年)、政子は大姫と頼朝の甥にあたる公家一条高能との縁談を勧めるが、大姫は義高を慕い頑なに拒んだ。政子は大姫を慰めるために義高の追善供養を盛大に催した。

建久6年(1195年)、政子は東大寺再建供養に出席する頼朝と共に上洛し、宣陽門院の生母の丹後局源通親と会って大姫の後鳥羽天皇への入内を協議した。頼朝は政治的に大きな意味のあるこの入内を強く望み、政子も相手が帝なら大姫も喜ぶだろうと考えたが、大姫は重い病の床につく。政子と頼朝は快癒を願って加持祈祷をさせるが、建久8年(1197年)に20歳で死去した。『承久記』によれば政子は自分も死のうと思うほどに悲しみ、頼朝が母まで死んでしまっては大姫の後生に悪いからと諌めている。

次いで頼朝は次女の三幡を入内させようと図り、三幡は女御宣旨を受けるが、頼朝は建久10年(1199年)1月に急死した。『承久記』によれば政子は「大姫と頼朝が死んで自分も最期だと思ったが、自分まで死んでしまっては年端も行かぬ頼家が二人の親を失ってしまう。子供たちを見捨てることはできなかった」と述懐している。

尼御台

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平政子

長子の頼家が家督を継ぎ、政子は出家してになり尼御台と呼ばれる。三幡の入内工作は続けられたが、頼朝の死から2ヶ月ほどして三幡が重病に陥った。政子は鎌倉中の寺社に命じて加持祈祷をさせ、後鳥羽上皇に院宣まで出させて京の名医を鎌倉に呼び寄せる。三幡は医師の処方した薬で一時保ち直したように見えたが、容態が急変して6月に僅か14歳で死去した。

若い頼家による独裁に御家人たちの反発が起き、正治2年(1200年)に頼家の専制を抑制すべく大江広元梶原景時比企能員北条時政北条義時ら老臣による十三人の合議制が定められた。だがこれについては13人全員で合議された例がなく、数名の評議の結果を参考に頼家が最終的判断を下す政治制度であり、頼家の権力を補完する機能を果たしていたとする見解もある。

その後、頼家が安達景盛の愛妾を奪う不祥事が起きた。景盛が怨んでいると知らされた頼家は兵を発して討とうとする。政子は調停のため景盛の邸に入り、使者を送って頼家を強く諌めて「景盛を討つならば、まずわたしに矢を射ろ」と申し送った。政子は景盛を宥めて謀叛の意思のない起請文を書かせ、一方で頼家を重ねて訓戒して騒ぎを収めさせた。

頼家と老臣との対立は続き、頼家が父に引き続いて重用していた梶原景時が失脚して滅ぼされた(梶原景時の変)。『玉葉』(正治2年正月2日条)によると、他の武士たちに嫉まれ、恨まれた景時は、頼家の弟実朝を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ、讒言が露見した結果、一族とともに追放されたという。『愚管抄』では景時滅亡と後の頼家殺害の因果関係を強く指摘している。

頼家は遊興にふけり、ことに蹴鞠を好んだ。政子はこの蹴鞠狂いを諌めるが頼家は聞かない。訴訟での失政が続き、御家人の不満が高まっていた。更に頼家は乳母の夫の比企能員を重用し、能員の娘は頼家の長子・一幡を生んで、権勢を誇っていた。比企氏の台頭は北条氏にとって脅威であった。

建仁3年(1203年)、頼家が病の床につき危篤に陥った。政子と時政は一幡と実朝で日本を分割することを決める。これを不満に思う能員は病床の頼家に北条氏の専断を訴えた。頼家もこれを知って怒り、北条氏討伐を命じた。これを障子越し聞いていた政子は、使者を時政に送り、時政は策を講じて能員を謀殺。政子の名で兵を起こして比企氏を滅ぼした。一幡も比企氏とともに死んだ(比企能員の変)。頼家は危篤から回復し、比企氏の滅亡と一幡の死を知って激怒し、時政討伐を命じるが、既に主導権は北条氏に完全に握られており、頼家は出家させられて将軍職を奪われ、伊豆の修禅寺に幽閉されて翌元久元年(1204年)に死去した。

だが比企氏滅亡や頼家の死に関して鎌倉幕府編纂書である『吾妻鏡』には明らかな曲筆が見られ、頼家の悪評や比企氏の陰謀は北条氏による政治的作為と考えられるため、そのまま鵜呑みには出来ない。『愚管抄』によれば、頼家は大江広元の屋敷に滞在中に病が重くなったので自分から出家し、あとは全て子の一幡に譲ろうとした。これでは比企能員の全盛時代になると恐れた時政が能員を呼び出して謀殺し、同時に一幡を殺そうと軍勢を差し向けた。一幡は母が抱いて逃げ延びたが、残る一族は皆討たれた。やがて回復した頼家はこれを聞いて激怒、太刀を手に立ち上がったが、政子が押さえ付け、修禅寺に押し込めた。逃げ延びた一幡も捕らえられ、北条義時の手勢に殺されたという。また頼家の死についても『愚管抄』によれば、頼家は義時の送った手勢により入浴中を襲撃され、激しく抵抗した所を首に紐を巻き付け陰嚢をとって刺し殺されたという。

頼家に代って将軍宣下を受けたのは実朝で、政子の父の時政が初代執権に就任する。時政とその妻の牧の方は政権を独占しようと図り、政子は時政の邸にいた実朝を急ぎ連れ戻している。元久2年(1205年)時政と牧の方は実朝を廃して女婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策。政子と義時はこれを阻止して、時政を出家させて伊豆へ追放した。代って義時が執権となった(牧氏事件)。

実朝は専横が目立った頼家と違って教養に富んだ文人肌で朝廷を重んじて公家政権との融和を図った。後鳥羽上皇も期待して実朝に昇進を重ねさせた。しかし公家政権との過度の融和は御家人たちの利益と対立し、また和歌や蹴鞠に傾倒して武芸を顧みない実朝への不満が募っていた。

政子は後難を断つために頼家の子たちを仏門に入れた。その中に鶴岡八幡宮別当となった公暁もいる。

建保6年(1218年)、政子は病がちな実朝の平癒を願って熊野を参詣し、京に滞在して後鳥羽上皇の乳母で権勢並びなき藤原兼子と会談を重ねた。この上洛で兼子の斡旋によって政子は従三位に叙されている(4月14日。同年10月13日には従二位に昇叙)。『愚管抄』によれば、このとき政子は兼子と病弱で子がない実朝の後の将軍として後鳥羽上皇の皇子を東下させることを相談している。

同年12月、実朝は右大臣に登った。義時や大江広元は朝廷に取り込まれて御家人たちから遊離することを恐れ諫言したが、実朝は従わない。

建保7年(1219年)、右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った実朝は甥の公暁に暗殺された。『承久記』によると、政子は深く嘆き「子供たちの中でただ一人残った大臣殿(実朝)を失いこれでもう終わりだと思いました。尼一人が憂いの多いこの世に生きねばならないのか。淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました」と述懐している。

尼将軍

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実朝の葬儀が終わると、政子は鎌倉殿を代行する形で使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願った。上皇は「そのようなことをすれば日本を二分することになる」と拒否した。上皇は使者を鎌倉へ送り、皇子東下の条件として上皇の愛妾の荘園地頭の罷免を提示した。義時は幕府の根幹を揺るがすと拒否。弟の時房に兵を与えて上洛させ、重ねて皇子の東下を交渉させるが、上皇はこれを拒否した。義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えることにした。時房は三寅を連れて鎌倉へ帰還した。三寅はまだ2歳の幼児であり、三寅を後見した政子が将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになる。『吾妻鏡』では建保7年(1219年)の実朝死去から嘉禄元年(1225年)の政子死去まで、北条政子を鎌倉殿と扱っている。

承久3年(1221年)、皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は京都守護伊賀光季を攻め殺して挙兵に踏み切った(承久の乱)。上皇は義時追討の院宣を諸国の守護と地頭に下す。武士たちの朝廷への畏れは依然として大きく、上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。

政子は御家人たちを前に「最期の詞(ことば)」として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」との声明を発表し、御家人の動揺は収まった。『承久記』では政子自身が鎌倉の武士を前に演説を行ったとしているが、『吾妻鏡』では安達景盛が演説文を代読している。

軍議が開かれ箱根足柄で迎撃しようとする防御策が強かったが、大江広元は出撃して京へ進軍する積極策を強く求め、御家人に動員令が下る。またも消極策が持ち上がるが、三善康信が重ねて出撃を説き、政子がこれを支持して幕府軍は出撃した。幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がる。

後鳥羽上皇は院宣の効果を絶対視して幕府軍の出撃を予想しておらず狼狽する。京方は各地で敗退して、幕府軍は京を占領。後鳥羽上皇は義時追討の院宣を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流された。政子は義時とともに戦後処理にあたった。

寿福寺の政子の墓と伝わるやぐら

貞応3年(1224年)、義時が急死する。長男の北条泰時は見識も実績もあり期待されていたが、義時の後室の伊賀の方は実子の北条政村の執権擁立を画策して、有力御家人の三浦義村と結ぼうとした。義村謀叛の噂が広まり騒然とするが、政子は義村の邸を訪ねて泰時が後継者となるべき理を説き、義村が政村擁立の陰謀に加わっているか詰問した。義村は平伏して泰時への忠誠を誓った。鎌倉は依然として騒然とするが、政子がこれを鎮めさせた。伊賀の方は伊豆へ追放された(伊賀氏事件)。

だが伊賀氏謀反の風聞は泰時が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとはしておらず、政子に伊賀氏が処分されたことのみ記されている。そのため伊賀氏事件は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる影響力低下を恐れた政子が、義時の後室・伊賀の方の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もある。北条家の家督問題は本来、義時の後家である伊賀の方が中心となって解決されるべき問題であり、義時の姉とはいえ頼朝に嫁ぎ北条家を離れた政子の介入は不当なものであったとしている[14]

泰時は義時の遺領配分を政子と相談し、弟たちのために自らの配分が格段に少ない案を提示し、政子を感心させた(ただし既に和田合戦・承久の乱などによる恩賞を受けており、ある程度経済的自立をしていた)。

嘉禄元年(1225年)、政子は病の床に付き、死去した。享年69。戒名は安養院殿如実妙観大禅定尼。墓所は神奈川県鎌倉市寿福寺に実朝の胴墓の隣にある。

評価

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鎌倉幕府の公式歴史書である『吾妻鏡』は、「前漢呂后と同じように天下を治めた、または神功皇后が再生して我が国の皇基を擁護させ給わった」と政子を称賛している。同時代の人物である慈円は『愚管抄』で政子の権勢をして「女人入眼の日本国」と評した。1230年頃に書かれたとされる『承久記』では「女房(女性)の目出度い例である」と評しているが、この評に対して政子に「尼ほど深い悲しみを持った者はこの世にいません」と述懐させている。

室町時代一条兼良は「この日本国は姫氏国という。女が治めるべき国と言えよう」と政子をはじめ奈良時代女帝元正天皇孝謙天皇)の故事をひいている。北畠親房の『神皇正統記』や今川了俊の『難太平記』でも鎌倉幕府を主導した政子の評価は高い。

江戸時代になると儒学の影響で人倫道徳観に重きを置かれるようになり、『大日本史』や新井白石頼山陽などが政子を評しているが、頼朝亡き後に鎌倉幕府を主導したことは評価しつつも、子(頼家、実朝)が変死して婚家(源氏)が滅びて、実家(北条氏)がこれにとって代ったことが婦人としての人倫に欠くと批判している。またこの頃から政子の嫉妬深さも批判の対象となる。日野富子淀殿と並ぶ悪女とする評価も出るようになった。

名称

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本人が「北条政子」を名乗った事実は無く、後世の便宜上の歴史用語に過ぎない[15][16]。「本名」は不明と言われることもあるが[17]実名と現代日本で言う本名は別概念であり、前近代日本に本名(=戸籍名)なる概念は無いとか[18]、前近代日本では現代と人名の仕組みが大きく異なり通称も公文書上の社会的名称のため、強いて言えば「本名」は複数あるなどと指摘されている[19]。最終的な対天皇の格式名称は本姓+諱の従二位平(朝臣)政子(吾妻鏡)。

「政子」の(成人名、天皇に対する名乗り)は、夫の死から19年後の建保6年(1218年)、朝廷が従三位の位を授与するのに際して、位記などの文書に記載するため、3年前に死去した父時政の一字(偏諱)を取って授けた名前であり、それ以前の実名幼名または諱)は不明[20]。嘉字(良い字)+子型の人名は官位を受けるときなどに名乗るもので、当時の社会通念上、幼名(出生名)に政子とつけることはない[20]。幼名は鎌倉時代末期成立の『真名本曾我物語』では「万寿」、室町時代の『仮名本曾我物語』では「朝日」となっているが、信憑性は不明[21]。中世の女性は、外向けには実名を名乗らないのが社会通念であり(忌み名のタブー)、娘時代の呼称は「大姫」(在地領主の長女の意)、公文書には「平氏女」(たいらのうじのにょ)と署名していたと推測される[15]

諱を受けた当時の一般的な呼称は「尼御台所」[20]。現代日本でも目上の人を呼び捨てにすることは非礼とされるが、この時代は実名呼称回避の慣習が特に強力な時代であり、2代将軍源頼家ですら北条一門の実名を呼んだことが確執の一因になったほどであった(吾妻鏡)[22]。親や夫は既に死去しているうえ、出家の身である彼女が日常的に法名通称ではなく「政子」を名乗り、かつ人々に呼称された可能性はほぼない[20]。そもそも前近代日本では男女を問わず通称の方が社会的名称であり、名字(苗字)+実名で公文書に書かないため、そのような人名表記のほとんどは現実の名乗りや呼称と異なる後世の便宜的な歴史用語に過ぎない[23]北条時政北条義時北条泰時北条時宗も全部歴史用語である[24]

史料上での呼称は、同時代の『愚管抄』では「時ママガムスメ、実朝頼家ガ母」「二位尼」[25]、甥の泰時が編纂した御成敗式目では「二位殿」(第7条)[26]、幕府の正史『吾妻鏡』では基本的に御台所[27]、頼朝没後に変化し尼御台、三位家、二位家、禅定二位家、二品禅尼、二位殿など。平政子は当時の呼称ではなく、源頼家の初出の際の説明(建久十年(1199年)己未二月大)でのみそう言及される[注 3]。南北朝時代の『神皇正統記』では従二位平政子[28]、江戸時代の『読史余論』(新井白石)では二位殿、『日本外史』(頼山陽)では政子[29]、『大日本史』では「源頼朝妻北條氏、名は政子」「政子」[30]、大正2年の日本史概説書では「政子」「二位ノ尼」「尼将軍」[31]となっている。

文部科学省教科書調査官高橋秀樹の調べによると、明治・大正期にも「政子」「平政子」の表記はあっても北条政子はなく、ようやく昭和13年(1938年)の人名辞典に平政子との併記を確認できる[32][注 4]。昭和15年(1940年)の日本史概説書では「頼朝の妻政子[34]」。その後「北条政子」が一般化した理由は明確でないが、『日本外史』が時政の継室を「牧氏」と記載したように、江戸時代以来、実名が不明な過去の女性を、出自を明らかにするため実家の名字・苗字を付けて記載していた慣行が流用された可能性がある[32]

なお大化元年の「男女之法」により公民の氏姓(本姓)は父系継承になり、一生変わらないのが原則のため[35]、「源政子」は誤りである。鎌倉将軍家を継承した藤原頼経ですら、養子に入っていないため源氏に改姓できなかった(明月記[36]。古代のウジカバネ公用は明治4年に廃され、現行法の「氏」とは本姓(源平藤橘など)でなく北条・足利・徳川などの名字(苗字)であり、直接の関係はない[37]。頼朝に名字は無い[38]。夫婦異名字の例として「北条政子」を挙げるのは不適切である(政子の妹の稲毛女房は吾妻鏡では夫婦同名字)[39]

脚注

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注釈

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  1. ^ 坂井は当時の北条時政クラスの武士は側室は持たなかったと指摘した上で、祐親の娘が政子から時房までの子女を生んだ後に死去し、その後で時政は牧の方と再婚したとする見解を取っている[4]
  2. ^ 真名本『曾我物語』巻三に「安元弐年丙申三月中半(なかば)のころより、兵衛佐殿は、北条の妃(ひめ)に浅からぬ御志に依て、夜々通はんとせし程に、姫君一人御在(おはしま)す(原文は漢文)」という記述がある[6]。通説では、「安元2年(1176年)3月」より、頼朝が政子の元に通い始めて、やがて姫君(大姫)が生まれたと解釈される[7][8]が、「安元2年(1176年)3月」は頼朝が政子に通い始めた結果、大姫が生まれた時期を指すとする解釈もある[9]。なお、後者の解釈によれば、伊東祐親が頼朝と政子の交際を知ったことが、頼朝と娘・八重姫を引き離して、2人の間の子である千鶴丸を殺害した直接の原因であったとしている[10]
  3. ^ 頼朝や頼家・実朝もほとんどは「先武衛」や「将軍家」など、当時の地位を反映した通称で記述される。
  4. ^ ただし高橋は言及していないが、昭和7年(1932年)にも「北條政子[33]」表記を採る書籍がある。

出典

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  1. ^ 永原慶二監修、貴志正造訳注『新版 全譯吾妻鏡 第二巻自卷第八至第十六』、新人物往来社、358頁(建久十年己未二月大)
  2. ^ 坂井孝一 2021, p. 42-44.
  3. ^ 坂井孝一 2021, p. 48-51.
  4. ^ 坂井孝一 2021, p. 50-51.
  5. ^ 保立道久 2015, p. 311・313(系図).
  6. ^ 坂井孝一 2021, p. 90-91.
  7. ^ 坂井孝一 2021, p. 90-95.
  8. ^ 呉座勇一 2021, p. 26-27.
  9. ^ 保立道久 2015, p. 309-310.
  10. ^ 保立道久 2015, p. 307-315.
  11. ^ 山本みなみ 2021, p. 83.
  12. ^ 石井進 1974.
  13. ^ 坂井孝一 2020.
  14. ^ 永井晋 2000, p. 135-159.
  15. ^ a b 野村育代 2000, p. 7.
  16. ^ 高橋秀樹 2004, p. 1–4.
  17. ^ 吉海直人「北条政子」は本名ではなかった─大河ドラマの基礎知識─、2022年02月08日
  18. ^ 小谷野敦『名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係ないのか』青土社、2011年、141-142頁
  19. ^ 尾脇秀和『氏名の誕生 江戸時代の名前はなぜ消えたのか』筑摩書房、2021年、278頁
  20. ^ a b c d 高橋秀樹 2004, p. 2.
  21. ^ 高橋秀樹 2004, p. 2–3.
  22. ^ 大藤修 2012, p. 83.
  23. ^ 尾脇秀和『氏名の誕生 江戸時代の名前はなぜ消えたのか』筑摩書房、2021年、244、252、291-297頁
  24. ^ 加藤晃「日本の姓氏」井上光貞ほか編『東アジアにおける社会と習俗』学生社〈東アジア世界における日本古代史講座第10巻〉、1984年12月、109-111頁、ISBN;9784311505102、NCID;BN00320743。
  25. ^ 田端泰子 2003, p. 197–199.
  26. ^ 田端泰子 2003, p. 196.
  27. ^ 五味文彦 2007, p. 28.
  28. ^ 山田孝雄 1932, p. 516.
  29. ^ 高橋秀樹 2004, p. 3.
  30. ^ 山路禰吉 1912, p. 497.
  31. ^ 本多浅治郎 1913, p. 267.
  32. ^ a b 高橋秀樹 2004, p. 4.
  33. ^ 雄山閣編集局編 1932, p. 3.
  34. ^ 渡邊幾治郎 1940, p. 124.
  35. ^ 洞富雄『庶民家族の歴史像』校倉書房、1966年、183頁
  36. ^ 高橋(1966)15-16頁
  37. ^ 井戸田博史『氏と名と族称 その法史学的研究』法律文化社、2003年、105頁
  38. ^ 武光誠『名字と日本人 先祖からのメッセージ』文芸春秋、1998年、86頁
  39. ^ 高橋秀樹 2004, p. 18.

参考文献

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  • 石井進『中世武士団』吉川弘文館〈講談社学術文庫〉、1974年。ISBN 978-4062920698 
  • 大藤修『日本人の姓・苗字・名前:人名に刻まれた歴史』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2012年。ISBN 978-4-642-05753-0 
  • 呉座勇一『頼朝と義時 武家政権の誕生』講談社〈講談社現代新書〉、2021年。ISBN 978-4-06-526105-7 
  • 五味文彦 著「はしがき」、五味文彦・本郷和人編 編『現代語訳吾妻鏡1:頼朝の挙兵』吉川弘文館、2007年。ISBN 978-4-642-02708-3 
  • 坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』PHP研究所、2020年。ISBN 978-4569848280 
  • 坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏 義時はいかに朝廷を乗り越えたか』NHK出版〈NHK出版新書)、2021年。ISBN 978-4-14-088661-8 
  • 高橋秀樹『中世の家と性』山川出版社〈日本史リブレット20〉、2004年。 
  • 高橋秀樹編『新訂吾妻鏡四:頼朝将軍記4 頼家将軍記録』和泉書院、2020年。 
  • 田端泰子『北条政子 幕府を背負った尼御台』人文書院、2003年。 
  • 永井晋『鎌倉幕府の転換点 「吾妻鏡」を読みなおす』日本放送出版協会、2000年。ISBN 978-4-642-07108-6 
  • 野村育代『北条政子 尼将軍の時代』吉川弘文館、2000年。 
  • 保立道久「院政期東国と流人・源頼朝の位置」『中世の国土高権と天皇・武家』NHK出版〈NHK出版新書)、2015年。ISBN 978-4-7517-4640-0 
  • 本多浅治郎『日本歴史講義』 上巻(改訂増補8版)、金刺芳流堂、1913年。 
  • 山路彌吉『訳文大日本史』 第五冊、後楽書院、1912年。 
  • 山田孝雄『神皇正統記述義』民友社、1932年。 
  • 山本みなみ『史伝 北条義時 武家政権を確立した権力者の実像』小学館、2021年。ISBN 978-4093888455 
  • 雄山閣編集局編『異説日本史:女性篇』 下、雄山閣、1932年。 
  • 渡邊幾治郎『皇國大日本史』朝日新聞社、1940年。 

関連作品

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評伝
小説
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テレビドラマ
漫画
彫像

関連項目

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