大蔵麻呂
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大蔵 麻呂(おおくら の まろ、生没年不詳)は、奈良時代の貴族。姓は忌寸。大和少掾・大蔵泉の子。官位は正五位下・玄蕃頭。
経歴
[編集]聖武朝の天平8年(736年)遣新羅少判官に任ぜられて、大使・阿倍継麻呂に従って新羅に渡る。しかし、大使の阿倍継麻呂は対馬で病死、副使の大伴三中は疫病に感染して入京できなかったため、大判官・壬生宇太麻呂とともに麻呂が入京し[1]、帰朝報告を行う。ここで、新羅がこれまでの礼儀を無視し、使節の使命を受け入れなかったことを奏上した。これに基づいて官人45名が内裏に召集され、対策のための意見の陳述が行われた[2]。
孝謙朝の天平勝宝6年(754年)外従五位下に、淳仁朝の天平宝字2年(758年)には大嘗祭の悠紀の国司を務めたということで、内位の従五位下に叙せられる(この時の主基の国司の担当者は上毛野広浜)。この間の天平勝宝8歳(756年)聖武上皇崩御に際しては造方相司を、天平宝字4年(760年)光明皇后崩御に際しては養民司を務めた。また、淳仁朝では丹波守・玄蕃頭を務めている。
天平神護元年(765年)称徳天皇の紀伊国行幸に騎兵副将軍として随行し、帰還後に従五位上に叙せられている。光仁朝の宝亀3年(772年)正五位下に至る。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 時期不詳:正七位上
- 天平9年(737年) 正月27日:見遣新羅使少判官
- 時期不詳:正六位上
- 天平勝宝6年(754年) 正月16日:外従五位下
- 天平勝宝8歳(756年) 5月3日:造方相司(聖武上皇崩御)
- 天平宝字2年(758年)8月4日:丹波守[3] 11月27日:従五位下(内位)
- 天平宝字4年(760年) 6月7日:養民司(光明皇后崩御)
- 天平宝字5年(761年)頃:見丹波守[4]
- 天平宝字7年(763年) 正月9日:玄蕃頭
- 天平神護元年(765年) 10月13日:騎兵副将軍(称徳天皇紀伊国行幸)。閏10月15日:従五位上
- 宝亀3年(772年) 正月3日:正五位下