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壬生宇太麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

壬生 宇太麻呂(みぶ の うだまろ、生没年不詳)は、奈良時代官人。名は宇多麻呂宇陀麻呂[1]于太万呂[2]とも記される。は使主。官位従五位下玄蕃頭勲位は勲十二等。

経歴

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聖武朝の天平6年(734年少外記を務めていた際、造公文使録事として出雲国へ派遣される(『出雲国計会帳』)。この時の位階は正七位上勲位は勲十二等。天平8年(736年遣新羅大判官に任ぜられて、大使・阿倍継麻呂に従って新羅に渡る。この時に詠んだ和歌5首が「大判官」の作として『万葉集』に採録されている[3]。しかし、帰途において大使・阿倍継麻呂は対馬で病死、副使・大伴三中疫病に感染して入京できなかったため、宇太麻呂は少判官・大蔵麻呂と入京し[4]、帰朝報告を行う。ここで、新羅がこれまでの礼儀を無視し、使節の使命を受け入れなかったことを奏上した。これに基づいて官人45名が内裏に召集され、対策のための意見の陳述が行われた[5]。その後、天平10年(738年上野介を務めていたことが見え。天平18年(746年従五位下右京亮に叙任される。

孝謙朝天平勝宝2年(750年但馬守に任ぜられて地方官に転じており、同年6月26日付の「但馬国」に「守外従五位下勲十二等壬生使主宇太万侶」の自署が見える[6]。天平勝宝6年(754年玄蕃頭として京官に復した。

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ 『続日本紀』天平勝宝6年7月13日条
  2. ^ a b 『大日本古文書』巻24 - 75頁
  3. ^ 『万葉集』15巻3612番,3669番,3674番,3675番,3702番
  4. ^ 『続日本紀』天平9年正月27日条
  5. ^ 『続日本紀』天平9年2月15日条
  6. ^ 『寧楽遺文』下巻764頁
  7. ^ 『寧楽遺文』上巻327頁
  8. ^ 『大日本古文書』巻1 - 596頁

参考文献

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