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大西一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大西 一郎
おおにし いちろう
近景
生年月日 1887年6月11日
出生地 日本の旗 日本香川県高松市(旧香川郡川東村
没年月日 (1950-01-21) 1950年1月21日(62歳没)
出身校 東京帝国大学
前職 横浜市助役

第11代 横浜市長
当選回数 1回
在任期間 1931年3月3日 - 1935年7月18日
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大西 一郎(おおにし いちろう、1887年明治20年)6月11日[1]1950年昭和25年)1月21日[2])は、戦前日本の内務官僚。第11代横浜市長を務めた。

経歴

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香川県香川郡川東村[3][4](現在の高松市)で、大西三千児の長男として生まれる[1][4]第三高等学校を経て[4][5]1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業[3][4]

1912年(明治45年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し、北海道庁属となった[3][4][5]。北海道庁警視、同理事官拓殖課長、同勧業課長、岩手県学務課長、兵庫県視学官・知事官房主事・学務課長、香川県警察部長朝鮮総督府事務官参事官慶尚北道内務部長、復興局土木部庶務課長、東京第一出張所長を歴任した[3]

1926年大正15年)に退官して、東京市助役となり、翌年まで在任した[3]1929年(昭和4年)、横浜市助役及び横浜市立横浜商業専門学校校長事務取扱に就任し、1931年(昭和6年)には市長に選出された[3][6]

その他活動

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1933年(昭和8年)には、横浜市港北区樽町に当時の綱島温泉繁栄を記念して建立されることになったラヂウム霊泉湧出記念碑の碑文を揮毫した[7]

脚注

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  1. ^ a b 『人事興信録 第10版 上』オ138頁。
  2. ^ 『昭和物故人名録』
  3. ^ a b c d e f 『神奈川県名鑑』1-2頁。
  4. ^ a b c d e 『昭和十一年度版 帝国人事大鑑』補遺15-16頁。
  5. ^ a b 『日本官僚制総合事典1868-2000』第2版、202頁。
  6. ^ 齊藤毅憲Y専(横浜市立横浜商業専門学校)の歴史横浜市立大学論叢.社会科学系列
  7. ^ 館報「開港のひろば」第140号 横浜開港資料館”. www.kaikou.city.yokohama.jp. 2019年5月25日閲覧。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第10版 上』人事興信所、1934年。 
  • 『神奈川県名鑑』横浜貿易新報社、1935年。 
  • 『昭和十一年度版 帝国人事大鑑』帝国日日通信社、1935年。
  • 『昭和物故人名録』日外アソシエーツ、1983年。 
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典1868-2000』第2版、東京大学出版会、2007年。