大谷登
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大谷 登(おおたに のぼる、 1874年3月26日 - 1955年7月31日)は、日本の海事実業家。日本郵船第7代代表取締役社長、船舶運営会初代総裁。
人物・経歴
[編集]福井県出身。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後日本郵船に入る。カルカッタ支店長、ニューヨーク支店長、ロンドン支店長、副社長等を経て、1935年(昭和10年)から代表取締役社長。日本航空輸送会長兼務を経て、1938年(昭和13年)大日本航空初代会長兼務。 この間、1937年(昭和12年)日本通運発足時には理事に就任した[1]。 1942年(昭和17年)船舶運営会初代総裁に就任。太平洋戦争中の戦時体制下で海運統制を行った。このほか南洋拓殖参与理事、海運協会理事長[2][3][4][5]、如水会理事等も務めた[6]。墓所は多磨霊園。
家族
[編集]- 父・大谷麓 - 福井藩士。登はその長男。[7]
- 妻・タツ - 京都士族、松宮信敬三女[7][8]
- 子・新一(東京商大卒、三菱銀行)、嘉雄(青山学院商科卒、日本郵船)、清子(日本郵船岡田晃雄の妻)、光子(長野幹長男達の妻)、輝、秀雄[8]
- 妹・コズエ - 大倉高等商業学校・大倉経済専門学校初代校長・立花寛蔵の妻[8]
脚注
[編集]- ^ 設立総会開く、初代社長に国沢新兵衛『中外商業新聞』(昭和12年10月2日夕刊)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p579 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 「大谷登」デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- ^ 「大谷 登」20世紀日本人名事典
- ^ 「第二章 大日本産業報国会の結成(つづき)」日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
- ^ 「日本航空輸送(株)『10年史 : 日本航空輸送株式会社』(1938.11)」渋沢社史データベース
- ^ 官報 1925年10月27日
- ^ a b 大谷登『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ a b c 大谷登『人事興信録』第14版 上
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