コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

大谷元秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大谷秀和 (戦国武将)から転送)
 
大谷元秀
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文23年(1554年
死没 元和8年5月19日1622年6月27日
別名 元服:彦十郎、通称:与兵衛(與兵衛)、藤原元秀、:元和、晩年:藤原元和
主君 丹羽長秀長重
父母 父:大谷吉秀
母:今川氏親
兄弟 元秀、元勝
関口親永の娘、杉生坊某(比叡山僧侶)の娘
秀成、信澄、直信、吉治、重門、丹羽長俊室、上田重道室
テンプレートを表示

大谷 元秀(おおや もとひで)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将丹羽氏の家臣。本姓は藤原朝臣[1]

生涯

[編集]

丹羽家臣・大谷吉秀(弥兵衛)の子(嫡男)。丹羽家の伝承によれば、母は今川義元の妹であったという(『世臣伝』)。大谷氏は、藤原南家乙麻呂流二階堂氏二階堂行通の子・藤原行信(大谷志摩守)が尾張国丹羽郡大谷-大屋敷村"おおやしき"を領して「大谷"おおや"」殿と呼ばれたことに由来すると伝わり、斯波氏今川氏などに属したのち、斯波家家臣の祖父・二階堂右近信吉、元今川家家臣の父・吉秀の代に織田家家臣丹羽長秀に仕えた(出典『世臣伝』二本松市史参照)。

元秀は永禄11年(1568年)の観音寺城の戦いで初陣。以来、父と共に多くの戦に従軍し、「鬼弥兵衛と呼ばれた父に劣らず」と武勇を称された。天正12年(1584年)10月20日に父・吉秀(戒名、見性圎法空居士)が没すると家督を継ぎ、越前国越前藤枝城城代5千石を賜った(出典『世臣伝』二本松市史参照)。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、丹羽家は西軍に与し、東軍の前田利長加賀国能美郡南浅井[2] において激突する(浅井畷の戦い)。元秀は坂井直政(後結城家臣)と共に北浅井方面に出陣し、長連龍、太田長知ら前田軍の殿軍と交戦した。その後は、丹羽家宿老衆筆頭元秀、一門衆筆頭丹羽秀重江口正吉(後結城家臣)、坂井直政らと共に金沢城へ行き、和睦交渉を行った(出典『世臣伝』二本松市史参照)。

関ヶ原の戦い後、丹羽家は改易されるが、元秀は以後も長重に付き従い、その身を守った。後に長重が常陸国古渡1万石で大名に復帰すると、元秀には千石を与えた(出典『世臣伝』二本松市史参照)。

元和8年(1622年)5月19日、江戸藩邸で病没。享年69(戒名、黄梅院寶圎宗珍居士)。家督は嫡男・秀成(志摩)が継いだ(出典『世臣伝』二本松市史参照)[1]

逸話

[編集]
  • 初陣となった「観音寺城の戦い」において、六角家の松野山三郎なる勇士を討ち取った元秀は、その功を喜んだ織田信長より「先祖の中に、武があって長命だった者がいるだろう。その先祖にあやかって名に改めよ」と命じられ、「大谷與兵衛信治-享年96歳」という先祖にちなみ、彦十郎から与兵衛(與兵衛)に通称を改めた(出典『世臣伝』二本松市史参照)。
  • 富山の役」では、敵将・佐々隼人を討ち取る功を上げており、戦闘中に佐々隼人の傍から奪った槍を「笹切」と名づけて愛用した。この槍の名の由来については2説あり、「佐々の槍で佐々を討ったため(佐々斬り→笹切)」とも「舞い散る笹の葉が槍穂に触れ、真っ二つに切れた」からだともいう。この槍は元秀の死後、主君丹羽長重に献上され、丹羽家代々の持槍となった「注:佐々隼人の所有かは不明」(出典『世臣伝』二本松市史参照)。
  • 大坂夏の陣天王寺・岡山の戦い」の前夜、大谷元秀、その子・秀成、直信、成田重忠(正成)、長屋元吉は、「明日の戦でもし高名を遂げられなければ、我ら五人、必ず討ち死にすべし」と誓い合い、水筒の酒を呑み交わした。翌日、五人はそれぞれ功名を挙げ、元秀は主君長重が徳川家康徳川秀忠の両君から賜った愛刀(大谷家家宝:和泉守兼定)「現存:所在不明」を与えられた。たらたらたらりとよく切れたことから「たらちね」と呼ばれた(出典『世臣伝』二本松市史参照)。
  • 元和5年、長重は新たに常陸江戸崎を加増されて2万石となった際に、元秀にさらに1千石の加増をしようとしたところ、元秀は「私はもう年老いて役に立ちません。この所領で良き士を招いて下さい」と言って固辞した(出典『世臣伝』二本松市史参照)。
  • 古渡のころ、領民たちが「丹羽家の年貢が重すぎる」と江戸へ押しかけて直訴した。証言は幕閣に取り上げられ、本多正信酒井忠世土井利勝が裁定に乗り出す大事となったが、このとき、丹羽家から派遣された元秀は「不正あってのことではなく、大坂の陣の出兵によって家中が困窮したため、やむを得ず領民より軍役分の夫金を取り立てただけのこと。このことは以前、土井・本多両君にもお許しを頂いたはず」と答えた。幕閣たちは「もっともである」とその理を認めて領民たちを古渡へ引き渡し、元秀は直訴の中心となった十名の首をことごとく刎ね、事態を収束させた(出典『世臣伝』二本松市史参照)。
  • 子孫は丹羽家(陸奥二本松藩)に重臣として仕え、代々藩政を支えた。また、幕末には丹羽の鬼大谷として(鬼与兵衛・大谷与兵衛元清「六番組銃士隊隊長」)、(鬼志摩・大谷志摩元善「遊撃隊隊長」)、(丹羽の鬼鳴海・大谷鳴海信古「五番組銃士隊隊長」)、(二階堂衛守二本松少年隊副隊長」)、などを輩出し、それぞれ「戊辰戦争・小野新町の戦い・白河口の戦い二本松の戦い母成峠の戦いなど」で活躍している(出典『世臣伝』二本松市史参照)。 また、父・大谷弥兵衛吉秀の次男、兄・大谷与兵衛元秀の弟、大谷治右衛門元勝の子孫・大谷治右衛門家本家10代当主大谷武(「元次」。没年明治8年9月34歳、福島県史第22巻8各論人物p105等の大谷武と大谷竹治は同一人物)は、9代当主大谷治右衛門元実(没年明治27年享年80歳。隠居後は号を「静山」)、竹木元方役100石の嫡男・長男として誕生す妻は渡辺孫市貫(砲術家)の娘、弓術や和歌に優れ、日置流印西派弓術と日置流雪花派弓術の免許皆伝す、書画を根本愚州に学ぶ。丹羽長国公の近習、御小姓目付 、歌人、二本松萬古焼絵付師。また、大谷武の嫡男・ 長男は大谷元良(慶応元年2月15日生れ、没年昭和15年享年76歳)。妻はキク(没年大正10年享年49歳)。白河県田村郡(現福島県田村市)の田村玄泰白岩玄泰「慶応2年(1866年)に白岩玄泰は白岩医院の第6代目院長となる」)に学び、明治20年1月済生学舎の医学予科(現日本医科大学医学部医学科と現東京医科大学医学部医学科)卒業、明治21年6月第一学区東京医学院の医学本科(現東京大学理科三類医学部医学科)卒業、公立本宮病院に勤め後、松川(現福島市松川)にて医院を開業す、子に恵まれず養子の誠が継ぐ。など輩出した[3]

脚注

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ a b c 二本松市史. 第5巻 (資料編 3 近世 2) 、著者 二本松市 編集・発行、出版者 二本松市、出版年 昭和 54.2 1979-2002 第二編 25 世臣伝 一之上/604〜616頁より引用
  2. ^ 通称、浅井畷。
  3. ^ 福島県史第22巻、各論編 8 人物155ページ
  4. ^ 次男・大谷右門と内藤新五左衛門正次と同一人物であり、二本松藩大城代内藤四郎兵衛正直の養子となり、戊辰戦争では大谷鳴海の五番組銃士隊に所属した。また実兄志摩元善の2人の娘を養子とした(『世臣伝』二本松市史)
  5. ^ 「大谷鳴海」星亮一編『二本松少年隊のすべて』新人物往来社、229頁。
  6. ^ 「ある勇士の苦渋の出陣」糠澤章雄『シリーズ藩物語 二本松藩』 現代書館、176頁。

出典

[編集]
  • 太田亮『姓氏家系大辞典』(角川書店、1963年)
  • 『丹羽歴代年譜 家臣伝』
  • 二本松市史. 第5巻 (資料編 3 近世 2) 、著者 二本松市 編集・発行、出版者 二本松市、出版年 昭和 54.2 1979-2002 第二編 25 世臣伝 一之上/604〜616頁
  • 『福島県史』第22巻、各論編 8 人物
  • 『雄藩雑話』
  • 『小松軍記』