大農令
大農令(だいのうれい)は、古代中国の前漢の一時期、紀元前144年か紀元前143年から、紀元前104年まであった官職である。農業、商業、国家財政を掌った。大農令を長官とする機関を大農と称したが、大農で長官を指すこともあった。
改称時期
[編集]その時期を、『史記』景帝紀では景帝中6年(紀元前144年)4月に治粟内史を大農としたとする[1]。多くの官の改称を列挙した中の一つである。
しかるに『漢書』の景帝紀は、この年の12月に「諸官の名を改めた」と個々の官名はあげずに記す[2]。
ところが、『漢書』百官公卿表は景帝後元年(紀元前143年)に治粟内史から大農令に変更したとして、一年ずれる[3]。百官公卿表は、『史記』が大農令と同時に改称したとする多くの諸官について景帝中6年(紀元前144年)の改称とするのに、『史記』には現れない衛尉への改称と、この大農令への改称だけは、景帝後元年(紀元前143年)と記す。
職掌と下部機関
[編集]治粟内史、大司農と同じく、穀貨を掌った[3]。農業、商業と、その産物である穀物・貨幣の保管である。穀貨が納入されてから支出されるまでを管理し、国家財政をつかさどった。漢には別に帝室財政を掌握する少府があり、大農に匹敵・凌駕する規模があった[4]。武帝時代から、後述の均輸・平準法により、様々な物資の輸送と売買も行うようになった。
下部機関に太倉、均輸、平準、都内、籍田があり、それぞれ太倉令、均輸令、平準令、都内令、籍田令を長官とした[3]。鉄市長を長官とする鉄市もあった[3]。地方の郡国にある諸々の倉、農監、都水の長も配下とした[3]。
太倉は都にある穀物倉を、都内は銭貨を出納し、籍田は官営の農地を管理した。
均輸は元鼎2年(紀元前114年)、平準は元封元年(紀元前110年)に、均輸・平準法の一環として設けられた。平準設置時には数十人の大農部丞が地域を分担し、郡に輸官または均輸官(長官は均輸長)を置した。大農部丞は、似た名の大農丞とは別の、より下の官職である。
大農令の人物
[編集]- 恵(姓は不明) - 景帝後2年見[6]
- 韓安国 - 建元3年(紀元前138年)任[6] - 建元6年(紀元前135年)免[6]
- 殷(姓は不明) - 建元6年(紀元前135年)任[6]
- 鄭当時 - 元光5年(紀元前130年)任[6] - 元狩4年(紀元前119年)免[7]
- 顔異 - 元狩4年(紀元前119年)任[7] - 元狩6年(紀元前117年)死
- 正夫(姓は不明) - 元狩6年(紀元前117年)任[7]
- 孔僅 - 元鼎2年(紀元前115年)見[7]
- 客(姓は不明) - 元鼎4年(紀元前113年)見[7]
- 張成 - 元鼎6年(紀元前111年)見[7]、同年死[8]
脚注
[編集]- ^ 『史記』巻11、孝景本紀第11、中6年。ちくま学芸文庫『史記』1の332 - 333頁。
- ^ 『漢書』巻5、景帝紀第5。ちくま学芸文庫版『漢書』1の152頁。
- ^ a b c d e f g 『漢書』巻10上、百官公卿表第7上。『『漢書』百官公卿表訳注』86頁。
- ^ 山田勝芳「均輸平準と桑弘羊」4 - 5頁。
- ^ 『漢書』巻24下、食貨志第4下。ちくま学芸文庫版『漢書』2の471頁。
- ^ a b c d e 『漢書』巻10下、百官公卿表第7下。『『漢書』百官公卿表訳注』200頁。
- ^ a b c d e f 『漢書』巻10下、百官公卿表第7下。『『漢書』百官公卿表訳注』202頁。
- ^ 『漢書』巻95、西南夷両粤朝鮮伝第65、閩粤伝。ちくま学芸文庫版『漢書』8の35頁。