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大迫辰雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
おおさこ たつお

大迫 辰雄
生誕 1917年大正6年)
千葉県千葉市
死没 2003年平成15年)6月17日
(満86歳没)
墓地 多磨霊園
国籍 日本の旗 日本
職業 日本交通公社職員
著名な実績 「命のビザ」を利用して逃れてきたユダヤ人難民の輸送斡旋業務
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大迫 辰雄(おおさこ たつお、1917年大正6年〉- 2003年平成15年〉)は、日本交通公社職員。千葉県千葉市出身。第2次世界大戦中の日本において、ユダヤ人を安全に亡命させるために尽力した人物の一人[1]

概要

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1939年昭和14年)、ドイツ軍ポーランド侵攻によって、第2次世界大戦が勃発。ナチス・ドイツが占領地にてホロコースト等のユダヤ人迫害政策を行う中、ヨーロッパのユダヤ人は西ヨーロッパへの逃げ道を失い、東欧、そしてソ連方面へと逃れた。在米ユダヤ人協会アメリカ合衆国連邦政府の許可を受け、米ウォルター・プラウンド社(後に英トーマス・クック社に合併)を通して、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在の日本交通公社JTB)にユダヤ人輸送の斡旋協力を依頼する[1]。ビューローは「人道的見地からこの任務遂行を決断」し、ユダヤ人輸送の斡旋業務を行うこととした[2]。斡旋業務の具体例は、名簿に記載された氏名と顔写真を基に照合、本人確認作業や在米ユダヤ人協会からの一時金の給付、米国等第三国への出国手続きなどであった[1]。ビューローは敦賀に駐在員事務所を設置、天草丸に添乗員を派遣して業務にあたった[3]

1940年(昭和15年)、大迫はジャパン・ツーリスト・ビューロー入社2年目にして、敦賀―ウラジオストック間を結ぶ日本海航路を担う天草丸のアシスタント・パーサー(船員)として勤務していた[1]。20回以上日本海を往復し、船上での添乗斡旋を行った[1]。ナチス・ドイツによる占領地域から来た2000人以上のユダヤ人が、ソ連ウラジオストクから日本の敦賀に向かうのを助けた[4]。彼らの多くは日本から米国へと亡命した[5]。これら難民の多くは「日本のシンドラー」ことリトアニアの日本帝國在カウナス領事代理であった杉原千畝やソ連の日本帝國在ウラジオストク総領事代理であった根井三郎によって発給されたビザを持っていた[6][1]1941年(昭和16年)に独ソ戦が始まり、シベリア鉄道経由でのユダヤ人亡命が行われなくなるまで斡旋業務は継続された。

大迫は戦後も日本交通公社で勤務しており、1966年(昭和41年)頃には国際観光振興会(現在の国際観光振興機構、JNTO)に出向している。なお、著述家である北出明は国際観光振興会で勤務していた頃は大迫の部下であり、『日本交通公社七十年史』や大迫と彼が助けたユダヤ人難民の写真アルバムを基に、ユダヤ人のナチス占領地脱出を助けた日本人について『命のビザ、遥かなる旅路―杉原千畝を陰で支えた日本人たち』(2012年交通新聞社)を書いた[7][5][2]。また、大迫自身も1995年平成7年)に回想録を記している[1]。大迫は2003年(平成15年)に死去した[4]

登場する作品

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映像

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映画

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f g 株式会社JTB大迫辰雄 (2017年8月17日). “JTB職員 大迫辰雄の回想録 ユダヤ人輸送の思い出”. JTBグループ 交流創造事業 発信サイト colors. 株式会社JTB. 2016年6月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月14日閲覧。
  2. ^ a b 株式会社JTB北出明 (2017年8月17日). “インタビュー 「命のビザ、遥かなる旅路―杉原千畝を陰で支えた日本人たち」著者 北出明氏”. JTBグループ 交流創造事業 発信サイト colors. 株式会社JTB. 2016年6月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月14日閲覧。
  3. ^ 株式会社JTB (2017年8月17日). “ユダヤ人の足取り”. JTBグループ 交流創造事業 発信サイト colors. 株式会社JTB. 2016年6月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月14日閲覧。
  4. ^ a b “Photos ID'd of European WWII refugees saved by Japanese tourism official” (英語). The Japan Times Online. (2015年12月14日). ISSN 0447-5763. オリジナルのDecember 17, 2015時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151217040542/http://www.japantimes.co.jp/news/2015/12/14/national/history/photos-idd-european-wwii-refugees-saved-japanese-tourism-official/ 2018年3月27日閲覧。 
  5. ^ a b Book on "Sugihara Survivors" Published in English | The Hawaii Herald” (英語). www.thehawaiiherald.com. 2018年3月27日閲覧。
  6. ^ Old photos reveal tale of Japan and Jews of WWII”. Herald Online (2010年10月18日). 2021年1月14日閲覧。[リンク切れ]
  7. ^ 1944-, Kitade, Akira; 1944-, 北出明 (2014). Visas of life and the epic journey : how the Sugihara survivors reached Japan. Tōkyō: 朝文社. ISBN 9784886952615. OCLC 881605347. https://archive.org/details/visasoflifeepicj0000kita 

関連項目

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  • 大迫尚敏 - 祖父。陸軍大将、学習院院長を務め「薩摩の乃木大将」と呼ばれた。
  • 樋口季一郎 - 日本の陸軍軍人。ソ満国境で足止めされているユダヤ避難民に対して、人道上の観点からソ連出国の斡旋、満洲国内への入植や上海租界への移動を手配した人物として知られる。

外部リンク

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