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大迫通貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大迫 通貞(おおさこ みちさだ、1890年明治23年)11月1日[1][2] - 1974年昭和49年)3月13日[1][2])は、鹿児島県出身の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

略歴

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鹿児島県出身[1][2][3]。農業・村長、大迫半七の子息として生まれる[1]。川内中学校(現鹿児島県立川内高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第45連隊付となる[1][4]。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業し歩兵第45連隊中隊長に就任[1][2][3]

1925年(大正14年)3月、陸士教官となり、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員、吉林駐在)を務め、1927年(昭和2年)7月、歩兵少佐に昇進[1]。1928年(昭和3年)4月、第6師団司令部付となり、歩兵第8連隊大隊長、張作相顧問(吉林駐在)を務め、1931年(昭和6年)8月、歩兵中佐に進級した[1][3]。同年9月、関東軍司令部付(吉林駐在)となり、同付(青木特務機関長、天津駐在)に転じ、1935年(昭和10年)8月、歩兵大佐に昇進した[1][3]

1936年(昭和11年)3月、歩兵第44連隊長に就任[1][2][3]満州国軍政部顧問を経て、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級し大本営付となり「竹工作」を担った[1][2][3]北支那方面軍付を経て、1939年(昭和14年)8月、第5独立守備隊長に転じ、1941年(昭和16年)7月、留守第57師団長となり、同年8月、陸軍中将に進んだ[1][2][3]。1943年(昭和18年)6月、第47師団長に親補され、1944年(昭和19年)10月に待命となり、同月、予備役に編入された[1][2][3]

1945年(昭和20年)3月、召集を受け鹿児島地区司令官に就任[1][2][3]。同年8月、西部軍管区司令部付となり、同年12月、召集解除となった[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

栄典

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位階
勲章

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸海軍総合事典』第2版、98頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『日本陸軍将官辞典』145頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』294頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』289、294頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」122頁。
  6. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。